本堂のメリークリスマス 2017・12・24 クラシックと津軽三味線のコラボ
昨年の12月24日「本堂のメリークリスマス」ということで、お寺の本堂でクリスマスコンサートを開催した。
出演は例によってテノール・関口直仁と津軽三味線の山中信人の二人である。最初の頃は、お寺の本堂でクリスマスコンサートか?宗教が違うでない?とか色々あったが?教会の牧師さんも巻き込んで今回で7〜8回になる。今回は、90人弱の人が来られ、本堂のギャラリーも一杯になり、なかなか盛況でもあった。
また、夏にはお盆特別興行として、講談師の神田京子による講談・番町皿屋敷に山中信人の津軽三味線の伴奏付きで興行をした。これも好評で大勢の人に喜んでもらえた。
最近お寺さんではいろいろなイベントをやっているですね?次はどのような・・・・?とかと云うやりとりが多くなってきた。これはお寺で色々やっていますよ!が定着しきたことなのか・・・・?
いずれ、問題は寺の本堂で何をどう表現するのか?である。
一つには、仏教を生き、それを広める(布教活動)のも、確かに重要ではある。
二つには、葬式の請負である。
とりあえずはこの二つになるのか? が、この二つは、必ずしも寺の本堂と云う空間に、こだわる必要がないのでは・・・・・。
では、そのような空間=場は必要なのであろうか?寺の本堂と云う様な空間である。今風に言えば、現代社会の中で、寺の本堂は必要なのか?である。ただ、ある意味その空間=場は、昔からある。それは、必要とされてきた場=空間でもあるのか?社会的にはそれなりの意味を持っているのか?それは、やはり必要とされる空間=場でもあったのか?腐っても鯛である。そしてやはり社会=世俗を生きるとは、宗教的要因を持たざるを得ないと云うことでもあるのか、それはやはり社会哲学、特に日々の暮らしに根ざした宗教哲学の課題でもある。
社会=世俗の中の、お寺の本堂という空間=場で何を表現すれば良いのだろうか?
人間は社会=世俗中で暮らしてゆく限り、それぞれにある境遇を生きざるを得ない。それが人間 の限界であり、宗教的要求の要因でもある。その様な限界がある限り、人間は表現=(物語)を求め、また表現(=物語る)をする。そしてその表現は、地涌うであり、自然(じねん)にも近く、身土不二でもあり、土着的でもあり、人間の「存在感情」の身振り手振りでもある、人間の「存在への情感」が表現の原点でもある。
そしてその様な表現を例えれば、地蔵でもあり、神楽でもあり、民謡でもあり、節談説教でもあり、アルタミラの壁画でもあり、ジャズでもあるのか。またその様な表現の観点から、先に挙げた本堂での表現は何処を目指すのか?である。単純に仏教の布教活動や葬式の請負の表現では、何と無く物足りなさが残る。仏教の布教活動はある意味専門的に成りがちで、従ってそれは教条的独善的にも成り、挙げ句の果てにその場=空間を聖域化する。するとそこでの表現は有難い物事だけに成ってしまい紋切りになる。
また、葬式の請負はあまりにも世俗化の傾向になる。つまりそれは型通りに御経を読んでれば良いに成り、挙げ句の果てに戒名料、葬儀料幾らの世界に入り込み、従ってそこでの表現は習慣化し、やはり紋切りになってしまう。
しかし習慣化が駄目ということではない。むしろ習慣化の故に、世俗(時代社会)から消え去ってゆく運命の習慣もあるのだが、そのような習慣に何を見るのか?それらは、人々が日々の暮らしの中で、ごく自然に産出してくる表現でもある。それはやはり、人間の「存在への情感」「存在感情」の表現である。
つまり、表現も色々あると思われるそんな中でも、やはり存在感情や、存在への情感の表現が重要になる。例えば、盆踊りと神楽とか葬儀のお経とかである。また「かごめ、かごめ」とかの童歌?遊び歌系も無視できない表現でもある。
「かごめ、かごめ、かごのなかのとりは、いついつでやる、よあけのばんにつるとかめがすべった、うしろのしょうめんだれ」これ凄いね!
葬儀でお経などでなく、これをやれば良いのに。
寺の本堂での表現はやはり人間の存在感情、情緒に根ざし、それに訴えるものが相応しいのか?これは逆には、取り敢えず何でもありか?
またまた変な話になってしまった……………?