寺の寺報の名前が畏れながら「世自在」である。寺報と云っても、寺の行事のお知らせ程度のものである。
世自在とは、経典(無量寿経)に登場する仏で世自在王仏=世饒王仏から、とったもので中々気に入っている言葉でもある。
ちなみに、世自在(セジザイ)「ヨニオノズカラアル」である。勝手な解釈では、世に自由自在に在る仏とでも云うのか、それが世自在王仏でもある。経典では、その世自在王仏に法蔵比丘が出逢い、仏に成りたいと願いを起こし、長い間修行をし仏になり、その願いも成就した、という筋立ての物語である。
世に自由自在に在る仏とは、どの様な仏か? わかったようでわからん話でもある。それは,お前の解釈が悪いとなる。確かに! ただその様な仏が世に存在するとすれば素敵な話でもある。
勝手な解釈をもう少し続ける。
世に自由自在に在る仏とは、適当でいい加減な仏でもある。その様な仏は、ある意味信仰の対象にはならない、なりにくい。困ったことに。意識の先にある仏でもあり、言外の仏でもある。それを世界論では、あの世とこの世との違いか。無意識とは、何も無いということではなく、意識に上ってこない世界も在る、と云うことでもあるのか。
ヒョットしてその無意識の世界は、適当でいい加減な世界なのかもしれない。
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