こんにちは、久美子です。
今日も観にきてくださって、
ありがとうございます🙇♀️
さて、浄発願寺→奥之院の後は、丁度中間あたりに有る(伝)大友皇子陵へ。
こちらも2度目のご挨拶🙇♀️
以前は弱々しい松が植ってましたが、ちょっと見当たらず、大きな椿と山桜の花が目を引きました。
乙巳の変(大化の改新)の中心人物である、
中大兄王(天智天皇)の嫡男にして、皇太子であった大友皇子。
《あさきゆめみし》の世界。
天智天皇の死去後、叔父の大海人皇子(天武天皇)とその後継を争って(壬申の乱)敗れ、
自害したとされる悲劇の皇子。
そのお墓が伊勢原にある。
まぁ、歴史書はその時の権力者が(良い様に)書き換える可能性は常について回りますが、石碑によると、
どうも、『天皇の皇子が争いの際にこの地まで落ち延び、ここで亡くなったので、ここに埋葬してお祀りします。』
という私的ザックリ訳。
まぁ、なんとか逃そうとしてくれた人が居た位には慕われて居た様です。
前述の通り、大友皇子は《皇太子》として立っていた訳で、その流れならそのまま《天皇》に即位するのが順当。
しかし、大友皇子が皇太子になる前の皇太子は大海人皇子だった。
天智天皇が息子に継承を希望し、それまでの天智天皇のやり方(意にそぐわない者は粛正)を知っていた大海人皇子は皇太子を退位し、吉野で隠棲。
そして、新たに皇太子になったのが、大友皇子。
という訳。
『全部、天智天皇のせい』とも言えるかも知れない。
もし、大友皇子と大海人皇子が協力し合う事が出来たのなら。
大海人皇子に大友皇子が仕える事が出来ていたなら、
どんな倭国(日本)になっていたのか?
哀しいかな、両雄並び立たず。
己の正当性をお互いに主張し合った末の顛末。
大友皇子の陵から見えるのは、山々と花そして鳥の声。
煌びやかな都とは違い、敗戦の果ての東下り。
しかも山間部にひっそりと暮らす元皇太子。
本人は何をしたかったのか?
もしかしたら、再起を図っていたのかも知れない。
正当な嫡流と時代の流れは相容れない時があり、そこに悲劇は生まれた。
今の私達はそこから何を読み解くのか?
《戦、乱、変》様々な事情があり激突する両者。
今でも続く争いの大元は昔から余り変わらないのかも知れない。
歴史的な事象をどの立ち位置で観るのか?
その事象は未来の人達の評価によって変わるもの。
それは現在でも変わらない事ですね。
*管理は側にある石雲寺さんが管理していて、石雲寺の境内にも石塔があります。
古代のロマンに浸ってみませんか?