あるクリスチャン理学療法士の思いつき日記

クリスチャン理学療法士の私
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川崎殺人事件 喜びを胸の痛みに、悲しみをもっと深く、それが裁きだと思う。

2015年02月25日 | 気になるニュース

川崎の中学1年生が殺された事件は、本当に心が痛みます。
早く犯人が捕まればと思います。(事情聴取しているとのことですから近いでしょう)

イスラム国が残忍・・・と言われていますが、
少年たちがこのような事件を起こす日本もどうかと思います。
残酷さ、残虐さは変わりありません。

クリスチャンとしてはどうか?と思いますが、
守られるべき人が殺されている、被害者ばかりが報道されている、
(報道にさらされ続け、忘れられていく)現状はどうかと思います。
被害者の報道はそこそこにしてもらいたい。
騒ぎすぎだと思います。
公開捜査とかじゃなくて、もう捕まるのは目前なんでしょうから・・・。

加害者を面前にさらすべき、批判し続けるべきだと思います。
(少年でなければ・・・と必ずつけるべきなんでしょうが)
社会的な制裁は受けて当然でしょう。

加害者が「権利、権利」と生きる権利を自分から主張しないで欲しい。
もちろん権利はあるでしょう。
でも、それは「当然」の顔で自分から言うべきものではなく、
悔いている者に対して、誰かに温情で与えられる、いただいている、というものだと思います。

すくなくとも、加害者は色々なことを我慢せざるを得ない、最低限度の生活になるようにしてもらいたい。
そこから反省、後悔の念が生まれるかもしれません。


犯罪としては残忍、でも、本当に考えなしの行動です。
交友関係を洗えば犯人は簡単にばれるのに、当然捕まるということを予測できないのでしょうか?
携帯を使っての偽装工作?、衣服を燃やすなどの隠ぺい工作をして何になるのでしょう。
余計に腹が立ちます。


犯罪者の更生を祈ること、遼太君には直接の関係がない私でも難しいです。
神様なぜですか、と問いたいです。
神様のせいではない。
犯罪を起こした人のせいです。

きっとTVでは解説者が、社会が悪い、とか、心が悪い、親が悪いなどと言うでしょう。
でも、そんな誤魔化したようなこと、本質をずらすことを言う前に、
まず、「加害者本人が悪いのです」と言って批判すべきです。

どうしたら救えたか?どうしたら二度とこのような事件が起きないか?も大事です。
でも、まず第一にはこの事件を見、批難すべき人を批難しましょう。


人間の心には暗いものがあります。
私もあります。
「私は大丈夫だ」と上から批判できる立場ではありません。


でも、被害者のみが被害を受け、もっと非難されるべき加害者を守る少年法には、
やはり疑問が残ります。
人間の性質はどん底に落ち、追い詰められなければ変わりません。
一生悔い続ける、苦しむ責任を取らせなければなりません。

犯人がこれからの生涯の中で、自分が喜ぶときには、
「自分が命を奪った遼太君はこんな気持ちになれないのだ」
と喜びではなく胸が痛むようにしなければなりません。

犯人がこれからの生涯の中で、自分が悲しむ時には
「自分が命を奪った遼太君はこれ以上比較にならないほどの悲しい気持ちになったのだ」
とさらに悲しみを深くするようにしなければなりません。

「オレは刑期を終えたのだから、つべこべ文句を言うんじゃない」
という傲慢な人が目の前にいたら、あなたは何を言えますか?

喜びを胸の痛みに、悲しみをもっと深く、それが裁きだと思う。