第7回目の舞鶴公園にこんなもんありますは、
二の丸東御門跡です。
お花見の時期ともなると、赤坂から歩いてお花見の会場へと急ぐ人たちで賑わう場所です。
【東御門跡】
テニスコートと旧平和台球場の間にある二の丸へ入口、すぐそばには、鴻臚館跡展示場が
あります。
【案内板など】
福岡城は初代福岡藩主・黒田長政が、慶長6年(1601年)から7年がかりで築城しま
した。ほぼ現在の舞鶴公園にあたる内城は天守台、本丸、二の丸、三の丸の4層に分かれ
潮見櫓、多聞櫓、花見櫓をはじめとする47もの櫓があったようです。
この「東御門跡」は、「三の丸」と「二の丸」をつなぐ門で、ここから二の丸、本丸、
天守台へと登っていくメインルートです。三の丸には、藩主を支える家老職の屋敷群が
あったそうです。
★お綱さんばなし★
この門は、「お綱門」とも呼ばれていて、こんな話もあるようです。
昔、この東御門はお綱門と呼ばれていました(扇坂御門をお綱門とする説もある)。
柱に触れただけで熱病に冒されたり、夜中にうなされたりするといわれたその門には、
恐ろしくも哀れな話が語り伝えられています。
寛永の頃、福岡藩2代藩主・黒田忠之は参勤交代の帰りに大阪で遊び、采女(うねめ)
という芸者を連れ帰りました。しかし、家老にいさめられて、お側役の浅野四郎左衛門に
預けることに。
浅野にはお綱という妻と幼い2人の子どもがいましたが、采女に心を奪われた浅野は、
妻子を顧みなくなってしまいました。簀子町の本宅に采女を住まわせ、お綱と子どもたち
を箱崎の下屋敷に別居させて、始めはしていた月々の仕送りもだんだんとしなくなりました。
貧しい生活にやきもきしたお綱は「せめて娘の4歳のひな祭りには何か支度を」と本宅に
下男を送ります。ところが、出てきた采女にけんもほろろに追い返され、下男はお綱に
申し訳ないと思い、箱崎松原で自害しました。
これを知って、お綱は狂乱します。2人の愛児を刺し殺し、なぎなたを携え浅野家に走り
ますが、夫は登城していて留守。逆に、屋敷にいた浪人の明石彦五郎に切りつけられてしま
いました。それでもせめて一太刀と、お綱は髪を振り乱し、血に染まった体をなぎなたで支
えながら、夫のいるお城へ。しかし、城門にたどり着くと同時に、門に手をかけたまま息絶
えたといいます。
その門がお綱門と呼ばれ、後に、浅野の本宅跡に建てられた長宮院に移されました。
当院は福岡大空襲で消失し、その跡地は現在、家庭裁判所になっています。
在り処は ココ です。舞鶴公園の鴻臚館跡展示場付近です。
二の丸東御門跡です。
お花見の時期ともなると、赤坂から歩いてお花見の会場へと急ぐ人たちで賑わう場所です。
【東御門跡】
テニスコートと旧平和台球場の間にある二の丸へ入口、すぐそばには、鴻臚館跡展示場が
あります。
【案内板など】
福岡城は初代福岡藩主・黒田長政が、慶長6年(1601年)から7年がかりで築城しま
した。ほぼ現在の舞鶴公園にあたる内城は天守台、本丸、二の丸、三の丸の4層に分かれ
潮見櫓、多聞櫓、花見櫓をはじめとする47もの櫓があったようです。
この「東御門跡」は、「三の丸」と「二の丸」をつなぐ門で、ここから二の丸、本丸、
天守台へと登っていくメインルートです。三の丸には、藩主を支える家老職の屋敷群が
あったそうです。
★お綱さんばなし★
この門は、「お綱門」とも呼ばれていて、こんな話もあるようです。
昔、この東御門はお綱門と呼ばれていました(扇坂御門をお綱門とする説もある)。
柱に触れただけで熱病に冒されたり、夜中にうなされたりするといわれたその門には、
恐ろしくも哀れな話が語り伝えられています。
寛永の頃、福岡藩2代藩主・黒田忠之は参勤交代の帰りに大阪で遊び、采女(うねめ)
という芸者を連れ帰りました。しかし、家老にいさめられて、お側役の浅野四郎左衛門に
預けることに。
浅野にはお綱という妻と幼い2人の子どもがいましたが、采女に心を奪われた浅野は、
妻子を顧みなくなってしまいました。簀子町の本宅に采女を住まわせ、お綱と子どもたち
を箱崎の下屋敷に別居させて、始めはしていた月々の仕送りもだんだんとしなくなりました。
貧しい生活にやきもきしたお綱は「せめて娘の4歳のひな祭りには何か支度を」と本宅に
下男を送ります。ところが、出てきた采女にけんもほろろに追い返され、下男はお綱に
申し訳ないと思い、箱崎松原で自害しました。
これを知って、お綱は狂乱します。2人の愛児を刺し殺し、なぎなたを携え浅野家に走り
ますが、夫は登城していて留守。逆に、屋敷にいた浪人の明石彦五郎に切りつけられてしま
いました。それでもせめて一太刀と、お綱は髪を振り乱し、血に染まった体をなぎなたで支
えながら、夫のいるお城へ。しかし、城門にたどり着くと同時に、門に手をかけたまま息絶
えたといいます。
その門がお綱門と呼ばれ、後に、浅野の本宅跡に建てられた長宮院に移されました。
当院は福岡大空襲で消失し、その跡地は現在、家庭裁判所になっています。
在り処は ココ です。舞鶴公園の鴻臚館跡展示場付近です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます