あの日。2011年3月11日。黒い濁流が田畑を呑(の)み、家や車を押し流していくテレビ映像を見ながら、声を失っていた。同時に「津波は必ず再来する」という作家、吉村昭さんの言葉を思い出していた。
吉村さんは04年9月の本紙夕刊に「高さ五十メートル 三陸大津波」というエッセーを寄稿している。三陸の津波史を、体験者の証言をもとに再現した『三陸海岸大津波』(文春文庫)の取材余話だった。余震を感じながら本書を再読、当時の読書面編集後記に<自然は、人間の想像をはるかに越えた姿をみせる>という本の言葉を引用した。
警告通りだった。明治の津波で1859人、昭和の津波では911人が犠牲となるなど壊滅的被害を受けた岩手県宮古市の田老地区ではその後、「万里の長城」と呼ばれる高さ約10メートル、全長約2・4キロの防潮堤を築いたが、本書では、大津波は〈防潮堤を越すことはまちがいない>と記されていた。今回の大震災で防潮堤は一部破壊され、同地区では約180人の死者・行方不明者が出た。
ただ、気になる箇所もあった。本書の最後に引用された「津波は時世が変わってもなくならない(中略)。しかし、今の人たちは色々な方法で充分警戒しているから、死ぬ人はめったにないと思う」という三陸の古老の言葉だった。吉村さんは<この言葉は、すさまじい幾つかの津波を体験してきた人のものだけに重みがある>と記している。『戦艦武蔵』など徹底調査と冷静な目で歴史を見つめる小説を書いた作家はなぜ、「死ぬ人はめったにない」という言葉に重きを置いたのか。06年に故人になった作家の胸の内を知る術(すべ)はなかった。
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今年2月26日、『三陸海岸大津波』の文庫解説を書いた作家、高山文彦さんと小型ジェットで、空から田老地区を見た。地上からは見上げるばかりの威容の巨大防潮堤は、空からはとても小さく、大地を這(は)っているように見えた。リアス式海岸の三陸では、海と急峻(きゅうしゅん)な崖、山が主役、人々は、わずかな平地にしがみつくように生きている。防潮堤とてその一部にすぎないのだ。
平地は津波の後遺症で、今なお大半が更地だった。それでも海沿いでは水産関連施設が仮復旧している。宮古の南隣の山田町の海ではカキなどの養殖いかだが復興しつつあった。高山さんは「恵みの海」に生きる人々の復興の歩みに感嘆の声をあげた。「津波には勝てない。勝てないけれど、諦めず生きようとする人たちの、宿命とともに生きようとする姿に力づけられる」
板子一枚下は地獄、という大海原に生きる船乗りの危険を示す言葉がある。海沿いでは津波もある。吉村さんもまた、海とともにたくましく生きる三陸の人々への畏敬の念を示したかったのだろう。
宮城県の石巻、女川、気仙沼は、無名時代の吉村さんが、津村節子さんと結婚した直後、メリヤス製品の行商をした思い出の地だった。宮古の北の田野畑村は、芥川賞に4回落ちた吉村さんが、妻が芥川賞をとった際、「一年間ヒモになる」と宣言して執筆した「星への旅」の舞台だ。この小説は太宰治賞に輝いた。田野畑は作家の出発点となった。
文芸誌「群像」に現在連載中の津村さんの「三陸の海」によると、吉村さんは毎夏、田野畑を訪れ、海岸の美しさを愛したという。そんな日々の中で作家は、〈二階家の屋根の上にそそり立った波がのっと突き出ていた〉という婦人の津波体験談を聞く。それが1970年刊の『三陸海岸大津波』の調査の始まりだった。
「死ぬ人はめったにない」という言葉は、「めったなことでは死んでほしくない」という作家の祈りにも似た願いだったに違いない。津波ではすぐ高台に逃げろ、と吉村さんは再三警告していたのだ。
人間の想像力を超える自然の力に勝つ術はない。近くにいる人が助け合い、誰もがすぐに避難できるルートを整備すること。そして、いざという時は、毅然(きぜん)と逃げることが、よく生きることなのだ。
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岩手県釜石市の子供たちが、訓練の成果をいかして震災直後に避難し、助かった事実を絵本にした『つなみてんでんこ はしれ、上へ!』(文・指田和/絵・伊藤秀男)が先月、ポプラ社から出た。子供たちには『三陸海岸大津波』の最後のページの言葉を贈りたい。<度重なる津波の激浪にも堪えて毅然とした姿で海と対している>と。
(次回は4月20日掲載です)