恐怖日和 ~ホラー小説書いてます~

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夜勤の夜 第六話

2019-10-02 09:49:38 | 夜勤の夜



               *

 それからも山尾が窓から手招きしているのを何度か見かけた。
 だがそれは時間外に誰かを呼び寄せているわけではなかった。
 なぜなら、黙認していても誰かが忍び込んで来ることはなかったからだ。
 奇妙だと思ったが智子はあえて深入りしなかった。
 何も気にしない。あの声はボイラーの音で、山尾の瞳は光の加減の錯覚、手招きは――いや、あれは手招きではなく部屋で喫煙して煙を外に出しているのだ。
 そう思い込もうとした。
 だが、今夜は何かがおかしい。
 山尾だけでなく他の病室の患者までもが死人のような白濁した目で窓に立ち手招きしている。
 いったい何を招いているの?
 智子はぞっとした。そしてこれはあの地下の声に関係しているに違いないと確信した。
 やはり調べてみなければ。
 この異変をかおるに報告するべきか迷ったが、智子は一人で階段を下りていった。

 懐中電灯の光を吸い込む闇に躊躇しながら、辛うじて照らし出せる部分を頼りに地階の廊下を一歩踏み出す。
 光の輪に映る床は一、二階のリノリウムとは違い、湿気を含んだようなコンクリートで壁も同様だ。
 数メートル進むと小さな唸りが壁の奥から聞こえた。
 ライトを向けると赤い扉と『ボイラー室』と書かれた錆びの浮いたプレートが浮かんだ。
 ノブを回しても鍵がかかって開かない。しばらく扉に耳を近づけていたが、ずっと同じ調子の低音が聞こえるばかりで、咆哮のような大きな音は聞こえてこない。
 やっぱりボイラーの音じゃなかったんだ。
 手の汗を白衣でぬぐって懐中電灯を握り直し、智子は先に進んだ。
 光はどこまでもコンクリートの壁と床を照らしていたが、廊下の突き当りで『霊安室』というプレートと観音開きの扉を映し出した。
 もしかして、ここから声が?
 智子は思わず唾を呑み込んだ。
 開くかどうかはわからない、押すか引くかもわからないが、とりあえずノブに手を掛けたその時、ひときわ大きな咆哮が聞こえた。明らかに霊安室からではない。
 突き当りとばかり思っていたが、闇に隠れた左側には廊下が続いていて、声はその方向から聞こえてきた。
 ボイラー室と霊安室以外に何かあるのか。
 智子は恐る恐る左へと進んだ。
 十数歩進むと左の壁に血の滴り跡がついた扉があった。
 驚いて一瞬身を引いたが、実際の血ではなく錆がそう見えているだけだった。
『隔離室』
 その奥から唸り声が聞こえ、その後すぐ咆哮が扉を震わせる。
 声はここからだったんだ。獣? 何のだろう?
 智子はもっとよく聞こえるように耳を近づけ、はっと顔を上げる。
「やめてくれぇ」
 微かだが苦しそうな呻き声に混じってそう聞こえた。
 獣ではなく男の人?
 もう一度耳を近づけると痛みに耐えかねたような大きな絶叫がして、それが長く尾を引いた。
 聞こえていたのは咆哮ではなくこの絶叫だったのだ。
 思わず手の力が緩み、懐中電灯が音を立てて床に落ちた。
 呻き声が止んでしんとなる。
 拾おうと慌ててしゃがみ込んだら扉に体当たりする激しい音が鳴り始めた。どんっどんっと衝撃で揺れるたびに扉の錆が剥がれ落ちた。
「助けてくれっ」
 呆然としていた智子は懇願する泣き声を聞きつけ扉を開けようとした。
 だが、本来あるはずの場所にノブがなく、開けることができない。
「助けてくれっ、たのむっ」
 そう言った後、また凄まじい絶叫が聞こえ、連れ去られていくようにその長く尾を引く声は遠ざかっていった。
「なに? この中で何が行われているの?」
 智子は半泣きで暗い廊下を引き返し、倒けつ転びつしながら二階まで駆け戻ってナースステーションへと急いだ。
 結局、山尾たちのおかしな行動とあの声との関連性はわからなかったが、今聞いたものをかおると松橋に報告しなければと思った。
 ガラス張りの受付の奥に二人の姿が見える。
「先生っ、先輩っ、やっぱりこの病院おかしいです。地下の隔離室っていったい何なんで――」
 息を切らしてナースステーションに飛び込む。
 だが、かおるも松橋も智子のほうを振り返りもせず、窓の外に向かっておいでおいでをしていた。
「せ、先輩?――」
 かおるが腕を前方に上げたまま手の動きを止め、首だけをゆっくりと智子に向ける。山尾たちと同じ何も映さない濁った瞳をしていた。
 松橋も手を止め、ゆっくりと智子に振り返ろうとしている。
 ここにいちゃいけない。
 智子は二人の様子を窺いながらナースステーションの出入り口まで後退った。
 右足が廊下に出たところで向きを変えて逃げるつもりだった。だが、勢いよく振り返った後ろには山尾と由紀生が死人の目をして立ちはだかっていた。
「いやあっ」
 一瞬身を引いた背中に何かがぶつかる。
 かおると松橋が白い瞳で智子をじっと見つめていた。