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「何も異常はないですか?」
巡回から戻るとカルテをチェックしていた松橋ドクターが顔を上げ、石田かおるを見た。
「ありません。みんなすやすやお休みになってます。
って、由紀生君は相変わらず絵本読んでましたし、山尾さんはベッドにいませんでしたけど」
「ベッドにいない?」
懐中電灯を元の位置に置いてかおるはため息をつく。
「きっと非常階段に出て煙草を吸ってるんですよ。入院の機会に禁煙したらって、煙草は体に良くないですよって、あれほど言ってるのに」
「ハハハ、しょうがないなぁ」
松橋は視線をカルテに戻しながら笑った。
「あ、そうだ、先生のお子さんもうすぐ誕生日でしたっけ?」
「うん」
「ちゃんと準備してますかぁ? 先生そういうとこちょっと気が利かないって奥様言ってましたよぉ」
「や、やってるけど、何? 君ら繋がってんの?」
「知らなかったんですか? わたし結婚のこと奥さまに相談してるんですよ。仲人を頼もうかと思って」
「ええ? 全然聞いてないんですけど? 何? もう決まってるの? 僕そういうのすごく苦手なんだけど」
「もう奥様からオッケーのお返事いただいてますよ。ちゃんと先生にも了承を得てるって――ああっほらぁ、また奥様の話聞いてなかったでしょ。言いつけてやろうっと」
「それは勘弁し――」
「あ、ちょっと待ってください先生――」
廊下で足音が聞こえたような気がして、かおるは松橋を止めて入口から顔を出した。
ナースステーションから漏れ出る光を受けて廊下の薄闇に誰か立っている。
はっきりと顔は見えなかったが、仄かに匂う煙草の煙臭と松葉杖で山尾だとわかった。
「山尾さん、だめでしょっ、早くベッドに戻ってください」
全然いうこと聞かないんだもの。優しい天使なんてやってられないわと、かおるは少し強めに注意した。
「石田さん――」
山尾が押し出されるように二、三歩前に進んでくる。
不安な表情の山尾の顔に重なり、背後に誰か立っていることにかおるは気付いた。
「あっ、だめですよ。時間外に面会人を連れ込んじゃ。
すみませんが、明日お越しください」
かおるは後ろの人物にも声をかけた。
「どうしたの?」
松橋が隣に顔を出す。
「山尾さんが時間外にお友だちを連れ込んだみたいで――」
二人が顔を見合わせている間に山尾がつんのめりながら入口まで近づいてきた。
「た、助けて――」
泣きそうな顔の山尾の背にナイフを突きつける男の手がナースステーションの照明に浮かび上がった。
「な、何だ君はっ」
松橋がかおるをかばうように前に出る。
「ここにいい薬あんだろ? それ出せよ。でないとこいつ殺すぞ」
山尾の背中にぐっとナイフを押し付ける。
「助けて――」
がたがた震える山尾の頬についに涙が溢れた。
「いい薬? そんなものここにはないよ。見逃してあげるから、早く出て行きなさい」
「うるせぇ、さっさと出せっ」
「痛っ――た、助けて――」
山尾のパジャマにジワリと血がにじみ出し、「山尾さんっ」と前に出ようとするかおるを松橋が制する。
「なあ先生早く出してくれよ。あちこち身体が痛むんだよ。頼むよ――なあ」
男の手が動くたび山尾が呻く。
「わかった。わかったからその人を放しなさい」
松橋はポケットから鍵束を出すとナースステーション奥に設置された薬金庫に向かった。
男が山尾を押しながら一緒に中に入ってくる。
青黒い顔色のそれよりもさらに目の隈が黒い男の顔が光の下にさらされた。