桃子の上体が浩の目の前まできた。彼女は笑う時に、相手に倒れ込むような仕草をするからだ。
髪の甘い香りに、浩は戸惑った。好意を感じていたが、どう行動すべきか分からなかったからだ。ステージを見つめる桃子の、すらりと伸びたきれいな足を、浩は一種の罪悪感を抱きながら盗み見た。彼の心を見透かしたように、桃子が突然振り向いてその視線で射抜かれはしまいかと怯えながら。
「ビル・エヴァンスが若いときに吹き込んだ『枯葉』が好きなんだ」
桃子は浩の瞳をまっすぐ見つめながら、彼の話に耳を傾けた。桃子はヴォーカルをやってはいるものの、あまりジャズの事はわからない。油絵との選択を悩んだ末に選んだ趣味だった。だからジャズの話になるともっぱら聞き役に回るしかなかった。 この夜の彼女は奔放だった。神妙に浩の話を聞いていたかと思えば、話の途中でも構わず、好子ママを呼び止め、他愛ないことを突然話しかけたりといった始末。また利発に受け答えたかと思えば、冷たくぞんざいにあしらったり。
『酔っているのかなあ』
自らも酔いを自覚しながら、浩は漠然とそう考えていた。何度か見かけてはいたが、桃子と一緒のテーブルでライブを聞くのは、今日が初めてだった。
「浩とはもう二十年以上やなあ」
好子ママは三五年以上ジャズクラブをしている。浩は二五年ほど前に、知り合いのピアニストに連れて来てもらって以来の客である。常連というほど頻繁に来る訳ではないが、好子ママとは何故かウマが合う。
「浩には気をつけや。すぐ女に手を出すんやから!」
好子は好色そうな目で桃子を挑発した。桃子は涼しそうな表情で
「わかりました」
と答えてから、無邪気な満面の笑みを浩に投げた。プレイボーイは自分に似合わないのは、浩にも分かっていたから、桃子の屈託の無い笑顔に救われる思いだった。
桃子はしばらく前からこの店に来ては、アマチュアでも歌えるジャムセッションに本当に時々ではあるが、参加するようになっていた。初めて同席したにもかかわらず、浩は昔からの知り合いのような気がしていたし、桃子にも何の警戒心もない様に見えた。 二回目のステージでは聞き慣れない曲が演奏されていた。このグループは、スタンダード曲を避け、あまり演奏されない名曲を取り上げるのだという。五十歳代だろうか、ベテランではあるが、このメンバーで演奏するようになってからまだ一年程らしい。軽快な曲をお洒落にアレンジしたり、感情を抑えながらもバラードに熱い気持ちを内蔵させるようなスタイルに、浩は好感を抱いていた。
「私もビル・エヴァンス聴いてみたいわ」
「録音してあげるよ」
「私に分かるかなあ・・・」
「音楽なんて、分かるかどうかじゃなくて、好きになれるかどうかじゃないかなあ」
「そうなんやね。私、なんでヴォーカルやってるんやろうか」
「・・・・・」
浩は桃子の手に触れた。桃子は柔らかな笑顔を浩に向けた。瞳が愁いを帯びているように見えた。そして困ったように視線をテーブルに落とし、再び浩を見つめた。浩は桃子の手の温もりを感じながら、その向こうにある迷路を予感していた。彼女に際限なく求めることが出来そうな幻影に酔っていた。
『男と女か・・・』
浩が見せた一瞬の戸惑いを目ざとく見つけて、眩しいほど若い体を浩に浴びせるように、桃子は例の仕草で笑った。 (了)
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これはフィクションです・・・