リートリンの覚書

麁服と繒服 7 養蚕の起源・日本編


日本の養蚕の起源
(古文書から読み解く)


日本における養蚕の起源は、
文献によりますと
少なくとも弥生時代には
すでに養蚕がされていたと思われます。

弥生時代に書かれた、
魏の史書、『魏志倭人伝』には、

「禾稲・紵麻を植え、蚕桑絹績し、細紵、縑緜(けんぱく)を出す」

と当時養蚕が行われていたことが
記されています。

「古事記」では
大宜津比売(おおげつひめ)の名で語られ、
その頭上に蚕が生じたと書かれています。

また、
「日本書紀」の巻一には
葦原中国の保食神の神話があり、
「日本書紀」の巻一・一書には
稚産霊命の頭上に蚕と桑が生じたとあります。

「古事記」が描く高天原の時代は、
おそらく紀元前のお話と思われます。

そのことから、
日本にもかなり古くから蚕は存在し、
家畜化されていた可能性はあります。

「日本書紀」、
応神天皇14年に
百済王から着物を縫う女性技術者が
贈られたことが記されています。

「日本書紀」の雄略天皇6年3月に
「天皇は妃・后に桑を摘ませて、養蚕を勧めようと思われた」
とあります。

また同16年には、
桑の栽培に適した国・県に桑を植えさせ、
織物の技術者であった
秦氏を移住させて

税が上がるようにしたとあることから、
この時期までにある程度の
養蚕や絹織物といったものの
生産が定着していることがわかります。

6世紀初めの頃に即位したとされる
継体天皇は、
農耕と養蚕が国にとって重要であると、
農業・蚕業を奨励する詔を出されています。

また7世紀初頭の
推古天皇12年4月に制定された
「憲法十七条」の第十六条には、

玉を使う時節を考慮せよとする条文の中で
「春より秋に至りては、農養の節(とき)なり、民を使ふべからず」
と記されています。

つまり、
農業と養蚕は国の繁栄と豊穣を支える
大事なものであるから、
それらを担う民を大切にしなさいと

定めていることからも、
当時の大和朝廷が蚕業をいかに
重要視していたかがわかります。

7世紀後半から8世紀後半頃にかけて
編まれた「万葉集」の和歌には、

養蚕、小絹、蚕飼、絹川などの
蚕糸業に関係の深い地名が
関東平野の紫峰筑波山周辺に
多く見られることから、

この地が養蚕や織物で
古くから栄えていたことがうかがえます。

また、
孝謙天皇が当年の養蚕豊作を願う行事を
行われたといった内容の歌

「初春の初子(はつね)の今日の玉箒(たまははき)、手にとるからにゆらく玉の緒」

初春の初子の今日、
玉箒を手に取ると、
玉が揺れて音をたてる

が大伴家持によって詠まれています。


日本の養蚕の起源
(遺跡から読み解く)


弥生時代の福岡の有明遺跡や、
佐賀県の吉野ヶ里遺跡では
絹織物の残布が発掘されています。

織組織や繊維断面から、
日本古来の絹であることが判明されています。

布目順郎氏の『養蚕の起源と古代絹』では、
日本最古のものは
弥生時代中期の絹織物であり、

それらはいずれも麻のように目の粗い平絹で、なかには織糸に撚りのかかった
紬様のものもみられると記しています。

このころから蠶(かいこ)が
「家畜化」されていたかどうかは
わかっていません。

しかし、
文字文化の発達していた中国で
最も古い農業書である
「済民要術」という本には、

蚕の家畜化は中国では
紀元前4000年頃から始まったとあり、
その頃から年間3回は
繭を作っていたという記載があります。

弥生に次ぐ古墳時代の
九州から関東にいたる
各地の遺跡から絹製品の出土があり、

量的には弥生時代とは
比較にならないほど多量で、
調査もその一部にすぎないと
いわれていますが、

古墳時代末期(7世紀ころ)
出土さされたものの大半は
日本でつくられた絹織物と想像されています。


感想

魏志倭人伝では、

その頃、
すでに日本で養蚕がされていた事が
書かれていますね。

中国がず〜っと企業秘密にしていた
養蚕が日本であっさりとされていた。

不思議ですね🧐

以前、日本人のルーツ、
縄文時代を調べたのですが、

縄文時代の末期に
長江文明を築いていた人々が
黄河文明の人たちに追いやられ
長江流域を離れ、

一部は、東南アジアへ
一部は、朝鮮半島へからの日本へ。
また、一部は南西諸島へとやってきた
可能性が高い。

その際、
水田稲作技術と共に
本格的な養蚕技術も
持ち込んできたのでは?ないかと。
自分は考えています。

しかし…🧐
簡単な養蚕は
もっと前からからあったかもしれません。

稲作はすでにありましたし、

海人民は、
最新技術を日本各地に広めてきた一族です。

その海人民が
繭みたいな便利な物を
見落とすはずがない。

がしかし、
絹がかなり以前からあったとしても、

日本の土は、
酸性ですから、
おそらく土に返っている可能性大。

日本は文字文化ではなく口伝文化。
日本史を知るかぎは、
遺跡から出土する品に頼るしかない。

しかし、

遺跡からの出土品から
素直に読み取ればいいのに、
文字に書いてないから
事実かどうか分からない。
と言っては隠蔽しちゃうとか、

証拠が不十分だから
中国大陸から、朝鮮半島から
持ち込まれたにしちゃえー
みたいな

もう、いいよー。

すみません💦
ついつい愚痴が😅

さて、

・日本書紀 稚産霊命の神話は
こちら、

・日本書紀 葦原中国の保食神の神話は
こちら、

今日はこれで。

最後まで読んで頂き
ありがとうございました。


参考にさせていただいた本

・シルクのはなし 
小林勝利 鳥山國士

・絹の文化誌 
篠原昭 嶋崎昭典 白倫 編著

・皇后さまとご養蚕 
扶桑社

・麁服(あらたえ)と繪服(にぎたえ)
天皇即位の秘儀 践祚大嘗祭と二つの布
(著)中谷 比佐子・安間 信裕 監修 門家 茂樹




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