麁服の奉仕者、御殿人・三木家
御殿人(みあらかんど)とは、
麁服の奉仕者です。
奉仕者には
御殿人と御衣人(みぞびと)があって、
御衣人は製作を担当し、
御殿人が統括する。
それをあわせて、
「御衣御殿人(みぞみあらかんど)」
といいます。
御殿人は、
代々忌部氏直系の氏人(うじびと)であり、
天皇即位後の践祚大嘗祭で麁服を製作し、
統括します。
そして、
天皇の勅使とともに、
麁服を持って天皇のいる都へ同行するのです。
中世には、
神祇官が天皇の命(めい)をうけて
太政官を経て、
阿波の国司から御殿人に、
官宣旨写し(かんせんしうつし)と
太政官符写(だじょうかんぷ)という
二つの勅書が渡されました。
これを受けて
麁服の製作にとりかかるわけですが、
三木家にはこれらの書面が
1260年の亀山天皇のものから
残っています。
これらの文面の中で、
「麁服を献上すべし」
というべき依頼の言葉が、
「進上(しんじょう)すべし」
と書いてあります。
「献上」とは、
主君や貴人に物を差し上げること。奉ること。
「進上」とは、
人に物を差し上げること。進呈。
献上という意味もありますが、
文面の中に書かれていますから、
目上の人に送る書状の表に
書いて敬意を表す語ととらえられます。
中世までの供納(きょうのう)の流れと歴史
1・皇室からの依頼
2・種まき
3・精麻にし、糸を積(う)み、
機を織って麁服を作る
4・完成した麁服を、
御殿人である三木家に安置する。
5・麁服を、勅使である
御衣使(みぞつかい)に渡す。
6・その麁服を、神祇官が保管する。
7・御殿人が再び麁服を受け取り、
大嘗祭が行われる大嘗宮へ持っていく。
つまり、
御殿人である阿波忌部氏が、
麁服を直接、
天皇のいるところへ納めるということです。
即位についての重要な儀式に対して、
阿波忌部が作る麁服が、
いかに重要であったかということが
わかると思います。
古来より麁服は、
阿波国忌部氏が織りたるものを
用いるということなのです。
大嘗祭の中断・復活と麁服
古儀に基づいて続けられてきた
麁服の調進ですが、
南北朝の動乱などの世の乱れを原因として
北朝2代の光明天皇の大嘗祭を最後に
中断してしまいます。
同時に阿波忌部による
麁服の貢進も途絶えることとなりました。
大嘗祭が、
簡易ながらも復活した江戸期には、
阿波忌部氏は関与していません。
麁服は代人(だいいん)によって
貢進されていました。
陰陽道の宗家である土御門家が、
忌部所作代として奉仕したことなどが、
記録に残されています。
1739年に出された
「大嘗会便蒙(だいじょうえべんもう)」
においても、
「昔は忌部氏の人多かり。今は大かた絶えるが故に他氏の人を以て代とす。今度忌部代として出仕せるは、伏原右平衛権佐宣條、行司官神祇大祜紀春清両人なり」
とあります。
続く
感想
1260年の亀山天皇からの
書面が残されているとは驚きですね😳
古い家系が途絶えずにいたからこそ
そういった書面が残されている。
家系が途絶えず連綿と続くとは凄いことです。
かなり難しい。
ちなみに、
うちの家系は風前の灯火です😅
長く続いている家系をみますと、
祖神(祖先)を大切に祀り感謝を捧げている、
家系が多いように感じます。
例えば、
天皇家、藤原家などなど
やはり、
家を守り続ける秘訣は、
祖先を大切にする事ではないかと、
私は思います。
さて、
神事が途絶えた。
大変残念なことですね。
それは…
乱世に入ったから
神事が途絶えたのか、
それとも、
神事が正しくおこなわれなかったから
乱世になったのか。
何となく🧐
自分は後の方ではないかと思っています。
なんの根拠もありませんが😅
大相撲が中止になった年に
災害が起きたりしている。
今年はコロナにより
神事が中止または、簡素化しています。
注意したいですね。
災害は忘れた頃にやってくる。
ただ、
阿波忌部氏の麁服が
途絶えた江戸時代。
平和だったのが不思議。
南朝が密かに正しい神事をしていたかも、
なんて妄想したりして…
また、今回の謎は、
天皇寺が阿波忌部氏に対して、
「献上」という言葉を使わず、
「進上」という言葉を使っていたことです。
「進上」は敬意を表す意味を持ちます。
つまりは、
天皇家は、
阿波忌部氏に敬意をはらっていた。
それは何故でしょうか?
忌部氏、
ますます気になってきましたよ。
必ず詳しく調べよう。
さて、今日はこの辺で。
本日は、
「麁服(あらたえ)と繪服(にぎたえ)
天皇即位の秘儀 践祚大嘗祭と二つの布」
(著)中谷 比佐子・安間 信裕
監修 門家 茂樹と
Wikipediaを参考に書かせていただきました。
最後まで読んで頂き
ありがとうございました。