577年ぶりに、
阿波忌部による麁服が復活。
中世以降簡略化されて絶えていた、
阿波忌部からの麁服調進ですが、
この古典の復興に力を注いだのが、
滋賀県彦根の出身の斎藤普春氏です。
彼は、
明治38年に、
国幣中社・忌部神社宮司として着任しました。
明治22年大日本帝国憲法とともに
皇室典範が公布され、
明治42年には、登極令が制定されました。
それにより、
大嘗祭をはじめとする
宮中祭祀が整備されると、
徳島県においても阿波忌部の伝統に基づき、
麁服調進の儀の再興を願う声が
高まっていきました。
そんななか、
忌部神社宮司・齋藤普春は、
「明治41年4月に、東宮殿下(後の大正天皇)が徳島県を行啓する」
という情報を知りました。
そこで、
麻植郡長の祖川豊、
那賀郡長の山縣操太郎らが、
斎藤への協賛し、
また、
三木家当主であった
三木宗次治郎が
自家と同郷に伝わる文章を提供しました。
斎藤普春はそれらを元に、
「践祚大嘗祭御贄考
(せんそだいじょうさいみにえこう)」
を著し、
徳島県に行啓された東宮殿下に、
麁服や木綿を献上しました。
そして、
大嘗祭の麁服調進の儀の復活を訴えたのです。
1915年の大正天皇の大嘗祭を控え、
忌部直系の末裔、
三木家当主であった三木宗治郎は、
「三木由緒」、
「大嘗祭に阿波忌部奉仕の由来」
などを著し、
麁服の復興を陳情しました。
その結果、大札使より、
「大嘗祭の儀において悠紀殿主基殿の神座に奉安する麁服は阿波国より調進せしめることに決定したから適当な調進者を決定して晒布(さらしぬの)四端(よんたん)(悠紀殿主基殿各二端寸法は鯨尺幅九寸、長さ二丈九尺)を調進せよ」
との通達を受けました。
大正天皇即位の大嘗祭における麻の栽培は、
海部郡木頭村にて行われました。
・7月5日
麻植郡山川町の
「山崎忌部神社」の境内が卜定。
織殿の地鎮祭と起工式が行われました。
・8月初旬
木頭村では麻の刈り取り、
麻剥ぎ、麻晒作業が行われました。
・8月10日
木屋平村の「谷口神社」拝殿において、
6人の麻績み、糸紡ぎが行われました。
・9月9日
「山崎忌部神社」の境内織殿で、
「織初式」が挙行されました。
その織女には、
山崎村の6名の少女が選ばれています。
・10月15日
「織上式」が挙行されました。
麁服は唐櫃に納められ、
列車で徳島駅に送られました。
そして
徳島市・徳島公園内の千秋閣に安置され、
2日間一般人の観覧を許されました。
・10月18日
夜航で上京し、
19日に京都の「大宮御所」に供納。
・11月14日
阿波忌部氏による麁服が、
大嘗宮の悠紀・主基両殿の神座に、
再び奉られました。
感想
争いがきっかけで
一度途絶えてしまった、
阿波忌部氏の調進する麁服。
大変残念なことです。
それが
様々な人々の努力で
復活したことは、
大変素晴らしいことだと思います。
やはり、
大麻の生育に適した天に近い土地で。
大地と天からのエネルギーを
タップリと受け取った大麻で織られた麁服。
大嘗祭にはそんな最高な依代・麁服が
必要だと私は思います。
復活して本当に良かったと思います。
今回、
三木宗治郎氏の著書が気になりました。
読んでみたいです。
しかし、
戦前の文章って
読みづらいんですよね。
もっと国語勉強しておけばよかったと
後悔😓
本日は、
「麁服(あらたえ)と繪服(にぎたえ)
天皇即位の秘儀 践祚大嘗祭と二つの布」
(著)中谷 比佐子・安間 信裕
監修 門家 茂樹と
Wikipediaを参考に書かせていただきました。
最後まで読んで頂き
ありがとうございました。