日本書紀 巻第二十 渟中倉太珠敷天皇 十
・日祀部、私部を置く
・大別王、小黒吉士を百済国の宰とする
・菟道皇女、伊勢斎王を解任される
・新羅、使者を派遣する
六年春二月一日、
詔して、
日祀部(ひのまつりべ)、
私部(きさいちべ)を置きました。
夏五月五日、
大別王(おおわけのおおきみ)と
小黒吉士(おぐろのきし)
とを遣わして、
百済国の宰(みこともち)としました。
(王人が、命を奉じて、三韓に使となり、自称して宰となのりました。韓の宰となるというのは、おそらく古の典(のり)でしょうか。今は使といいます。余もみなこれにならうように。大別王は出所が未詳です)
冬十一月一日、
百済国王は、
還る使の大別王等に付して、
経論を若干巻、
あわせて、
律師(りつし)、
禅師、
比丘尼(びくに)、
呪禁師(じゅこむのはかせ)、
造仏工(ほとけつくるたくみ)、
造寺工(てらつくるたくみ)
を六人を献(たてまつ)りました。
遂に、
難波の大別王の寺に安置ました。
七年春三月五日、
菟道皇女(うじのひめみこ)を、
伊勢の祠に侍らせました。
即、
池辺皇子に犯され、
ことが顕らかになって、
解かれました。
八年冬十月、
新羅が
枳叱政奈未(きしきまな)を
遣わして、
調を進(たてまつ)り、
あわせて仏像を送りました。
九年夏六月、
新羅は、
安刀奈末(あとなま)、
失消奈末(ししょうなま)
を遣わして、
調を進(たてまつ)りましたが、
納めずに還しました。
(感想)
敏達天皇6年2月1日、
詔して日祀部、
私部を置きました。
夏5月5日、
大別王と小黒吉士とを派遣して、
百済国の宰(みこともち)としました。
(王の使用人が、命を受けて、三韓の使者となり、自称して宰と名乗りました。韓の宰となるというのは、おそらく古の典(のり)でしょうか。今は使(つかい)といいます。ほかもみなこれにならうように。大別王は出自が未詳です)
冬11月1日、
百済国王(威德王)は、
帰国する使者の大別王らに付けて、
経論を若干巻、
あわせて、
律師、禅師、比丘尼、
呪禁師、造仏工、造寺工を
六人を献上しました。
遂に、
難波の大別王の寺に安置ました。
敏達天皇7年春3月5日、
菟道皇女を、
伊勢の祠に侍らせました。
すぐに、
池辺皇子に犯され、
ことが顕らかになり、
斎王を解かれました。
敏達天皇8年冬10月、
新羅が枳叱政奈未を派遣して
調(みつき)を献上し、
あわせて仏像を送りました。
敏達天皇9年夏6月、
新羅は、
安刀奈未、失消奈未を派遣して、
調を献上しましたが、
日本はそれを納めずに
帰国させました。
明日に続きます。
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