リートリンの覚書

日本書紀 巻第二十三 息長足日広額天皇 六 ・泊瀬仲王の願い ・山背大兄の要求 ・大臣の返答



日本書紀 巻第二十三 息長足日広額天皇 六

・泊瀬仲王の願い
・山背大兄の要求
・大臣の返答



既に、
泊瀬仲王(はつせのなかのみこ)は、

別に中臣連(なかとみのむらじ)、
河辺臣(かわへのおみ)を喚び、

語って、
「我等が父子は、
並びに蘇我の出である。

天下の知るところである。

ここをもちて、
高山のごとく、
頼りにしている。

願わくは、
嗣の位のことは、
たやすく言わないでくれ」
といいました。

則ち、
三国王、櫻井臣に令して、
群卿に副え遣わして、
「還言(かえりごと)を聞きたい」
といいました。

時に、
大臣は、紀臣(きのおみ)、
大伴連(おおとものむらじ)を遣わして、

三国王・櫻井臣に語らせて、
「先日の言ったことは
すでに終わっています。
更に異なることはありません。

然るに、
臣が敢えて、
どの王を軽んじたり、
どの王を重んじたりしましょうか」
といいました。

ここにおいて、
数日の後、
山背大兄(やましろのおおえ)は、
また櫻井臣を遣わして、

大臣に告げさせて、
「先日の事は、
聞いたことを述べただけだ。

どちらかといえば、
叔父が違うのではないか」
といいました。

この日、
大臣は病となり、
櫻井臣と面して
言うことができませんでした。

明くる日、
大臣は櫻井臣を喚(よ)び、

卽ち、
阿倍臣(あへのおおみ)、
中臣連(なかとみのむらじ)、
河辺臣(かわへのおみ)、
小墾田臣(おはりだのおみ)、
大伴連(おおとものむらじ)を遣わして、

山背大兄に申し上げさせて、
「磯城嶋宮御宇天皇
(しきしまのみやにあめのしたしらししすめらみこと)
の世及び近世まで、

群卿は皆、
賢哲(けんてつ)でした。

ただ今、
臣は不賢(ふけん)です。

たまたま、
人の乏しい時に当たり、
誤って群臣の上に居るだけです。

ここをもちて、
基を定めることができません。

然るに、
このことは重い事です。

申し伝えることができません。

故に、
老臣には労とはいえども、
面して申し上げようと思います。

それ、ただ、
遺勅を誤らせないためです。
臣の私意(しい)はありません」
といいました。



・泊瀬仲王(はつせのなかのみこ)
山背大兄王の異母兄弟
・還言(かえりごと)
返事
・磯城嶋宮御宇天皇
(しきしまのみやにあめのしたしらししすめらみこと)
欽明天皇
・賢哲(けんてつ)
賢人と哲人。賢明で道理をわきまえた人
・不賢(ふけん)
賢明でないこと。思慮・分別のないこと。また、その人やさま
・私意(しい)
自分の考え・意見



(感想)

前回のお話


そんななか、
山背大兄王の異母兄弟、泊瀬仲王は、

別に中臣連、
河辺臣を呼び出して、

語って、
「私たち、聖徳父子は、
みな蘇我の出身である。

これは、
天下の知るところである。

こういうわけで、
叔父を高山のように、
頼りにしている。

願わくは、
日嗣の位のことは、
たやすく言わないでくれ」
といいました。

則ち、
山背大兄は
三国王、櫻井臣に命令して、

群卿に副えて派遣して、
「返事を聞きたい」
といいました。

時に、
大臣は、
紀臣、大伴連を派遣して、

三国王、櫻井臣に語らせて、
「先日、言うべきことは、
すでに言い終えています。

更に異なることはありません。

さらに、
臣が、

わざわざ、
どの王を軽んじたり、
どの王を重んじたりしましょうか」
といいました。

ここにおいて、
数日の後、
山背大兄は、
また櫻井臣を派遣して、

大臣に告げさせて、
「先日の事は、
聞いたことを述べただけだ。

どちらかといえば、
叔父が間違えているのではないか
といいました。

この日、
大臣は病となり、
櫻井臣と面会して
言うことができませんでした。

明くる日、
大臣は櫻井臣を呼んで、

すぐに、
阿倍臣、中臣連、河辺臣、
小墾田臣、大伴連を派遣して、

山背大兄に申し上げさせて、
「欽明天皇の世および近世まで、
群卿は皆、
賢明で道理をわきまえた人たちでした。

ただ今、私は思慮・分別のない人間です。

たまたま、
人材の乏しい時に当たり、
誤って群臣の上に居るだけです。

こういうわけで、
大きな事業の基礎を
定めることができません。

しかし、
このことは重い事です。

伝言はできません。

こういうわけで、
老臣には労とはいえ、
面会して申し上げようと思います。

それは、ただ、
遺勅を誤らせないためです。
私の自分の考えはありません」
といいました。

さて、
このお話が実際あったのか?

あったとしても
どこまで真実か?

後に天下を勝ち取った藤原氏が
関与した国史ですから…
わかりません。

死人に口無し。

さて、
実際どうだったのかは置いといて、
読んでみての感想ですが、

蘇我氏がいう推古天皇の遺勅は、

『汝は、思慮が若い。
さわがしく言ってはいけません。
必ず群臣の言う事に従いなさい

これ、
間違えて言っているのでは無く

遠回しに、
「お前は、
俺たちの言うことに従っていろ」
って言っているのでは?

これに対し

山背大兄は、

「叔父さんが間違えているのではないか」

あー、
反論しちゃいましたね。

ここで、
山背大兄が反論せず、

はい、おじさんの言う通り、
となっていたら…

歴史は変わっていたかも知れませんね。

聖徳太子の血統は守れたかもしれませんね。

しかし、
どうして、
蘇我大臣は、

蘇我氏の血縁である、
聖徳太子を
山背大兄を天皇にしなかったのでしょうか?

ますます、
私の仮説

聖徳太子は、
神武天皇の直系男子ではなかった。

聖徳太子は、
天皇の女系男子だったのでは。

が成り立ちそうです。

さて、今後はいかに。

明日に続きます。

読んでいただき
ありがとうございました。


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