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リートリンの覚書

名所江戸百景を訪ねて 第95景 「眞間の紅葉手古那の社継はし」


名所江戸百景を訪ねて


名所江戸百景を訪ねて
第95景 「眞間の紅葉手古那の社継はし」


弘法寺の境内にあった楓の木を前景におき二股になった幹と幹の間から、手児奈の社を見下ろしています。

小川に掛かっているのが継橋です。


弘法寺



弘法寺は、千葉県市川市真間四丁目にある日蓮宗の本山です。


手児奈霊堂
(てこなれいどう)



手児奈霊堂は、伝説上の女性・手児奈を祀る霊堂です。

手児奈霊堂は奥津城処(墓所)と伝えられる地に建てられ、文亀元年(1501)には弘法寺の七世日与上人が、手児奈の霊を祀る霊堂として、世に広めたと言います。



手児奈霊堂は、この奥津城処(墓所)と伝えられる地に建てられ、文亀元年(1501)には弘法寺の七世日与上人が、手児奈の霊を祀る霊堂として、世に広めたという。
手児奈の物語は、美人ゆえ多くの男性から求婚され、しかも自分のために人びとが争うのを見て、人の心を騒がせてはならぬと、真間の入江に身を沈めたとか、継母に仕え真間の井の水を汲んでは孝養を尽くしたとか、手児奈は国造の娘でその美貌を請われ、或る国の国造の息子に嫁下が、親同士の不和から海に流され、漂着したところが生まれ故郷の真間の浦辺であったとか、さらには神に司える巫女であったりする等、いろいろ形を変えて伝えられている。
万葉の時代から今日に至るまで、多くの作品に取り上げられた真間の地は、市川市における文学のふる里であるともいえる。
掲示板より引用
 


真間の継橋
(ままのつぎはし)





その昔、市川市北部の台地と、その南に形成された市川砂洲との間には、現在の江戸川へ流れ込む真間川の河口付近から、東に向かって奥深い入江ができていた。この入江を「真間の入江」と呼び、手児奈の伝説と結びつけて伝えられた「片葉の葦」やスゲ等が密生していた。
国府台に下総国府が置かれた頃、上総の国府とをつなぐ官道は、市川砂洲上を通っていた。砂洲から国府台の台地に登る間の、入江の口には幾つかの洲ができていて、その洲から洲に掛け渡された橋が、万葉集に詠われた「真間の継橋」なのである。この継橋は
『足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通わむ』
(足音せず行く駒がほしい、葛飾の真間の継橋をいつも手児奈のもとに通いたいものだ)の歌で有名となり、読み人知らずの歌ではあるが、当時の都びとまでに知れわたっていたのである。
この真間周辺には継橋をはじめ、手児奈の奥津城(墓)、真間の井など、万葉集に詠まれた旧跡が多い。これらの旧跡も歳月が経つにつれて、人々の間から忘れ去られていくのであるが、これを憂いた鈴木長頼は、弘法寺の十七世日貞上人と議して、元禄九年(1686)その地と推定されるいちに碑を建て、万葉の旧跡を末永く顕彰することを図った。この碑がいまだに残る「真間の三碑」である。引用・説明書き




描かれた場所は
現在どのようになっているのでしょうか?
訪ねてみました。




参道の階段の上より手児奈霊堂方面を撮影してみました。



最後に

構図から察すると広重が立っていただろう場所は、もう少し左側だと思われます。

しかし、木が生い茂り、左側にはこれ以上いけませんので、階段の上より撮影してみました。

当時はこんなに木が生えていなかったのかな。

※記事を書き終えた後、もう一度弘法寺を調べてみると、弘法寺境内には市川市内を一望できる月見の広場があったみたいです。

手児奈霊堂は階段をおりてすぐの場所にあるのですが、木で見えません。

百景には小川が描かれていますが、現在では川は見えません。見えるは、道路と建物ばかり。

楓の代わりに緑の木々。奥に見える山の代わりは市川駅前のビル群って感じでしょうか。

我ながら無理やりだな。





参考
Wikipedia
太陽の地図帖 広重「名所江戸百景」の旅

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