リートリンの覚書

日本書紀 巻第十 譽田天皇 一 ・出自 ・立太子・名前の由来


日本書紀 巻第十 譽田天皇 一

日本書紀 巻第十 
譽田天皇(ほむたのすめらみこと)
応神天皇(おうじんてんのう)

・出自
・立太子
・名前の由来



譽田天皇は、
足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)
の第四子です。

母は、
気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)
といいます。

天皇は皇后が新羅を討った年、
九年の冬十二月に、
筑紫の蚊田(かだ)で生まれました。

幼くして聰達(そうたつ)で、
物事を深く、そして遠く、
見通すことができました。

動容(どうよう)や進止(しんし)は、
聖の表(しるし)
(あやしき)ことがありました。

皇太后摂政三年、
皇太子に立ちました。

時に御歳三歳。

始め天皇がお腹の中にいたとき、
天神地祇は三韓を授けました。

産まれる時、
肉が腕の上に生じ、
その形が鞆(ほむた)のようでした。

これは皇太后が男装して
(とも)負っていた物を
(かたど)っていました。

肖、これは阿叡(へえ)と云います。

故に、
その名を譽田天皇と称しました。

上古(いにしえ)の時の俗(ひと)
鞆を褒武多(ほむた)といいました。

一云では、
初め天皇は太子となって、
越国(こしのくに)へ行きまして、
祭られている
角鹿(つぬが)の笥飯(けひ)大神に
拝礼しました。

時に、
大神は太子と名を取り換え与えました。

故に、
大神を去来紗別神(いざさわけのかみ)といい、
太子を誉田別尊(ほむたわけのみこと)
名づけました、と。

それならば、
大神の本名は譽田別神で、
太子の本名は去来紗別尊というのでしょう。
しかし見る所がありません。
未詳です。


説明

・足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)
仲哀天皇

・気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)
神功皇后

・筑紫蚊田(つくしのかだ)
筑紫国怡土郡(いと)長野村蚊田、現・前原町長野、または筑紫国御井郡賀駄郷、現・小郡町平方辺

・聰達(そうたつ)
賢くて物事の道理に通じていること。聡明。

・動容(どうよう)
動くすがた。挙動。たちふるまい

・進止(しんし)
立ち居振る舞い。挙動。土地や人間を占有・支配すること

(とも)
とは、弓を射る時に左手首の内側につけて、矢を放ったあと弓の弦が腕や釧に当たるのを防ぐ道具である。古語では「ほむた・ほむだ」という。


感想

譽田天皇は、
仲哀天皇の第四子です。
母は神功皇后といいます。

天皇は皇后が新羅を討った年、
仲哀天皇9年冬12月に、
筑紫の蚊田で生まれました。

幼い頃から、
賢く物事の道理に通じており、
物事を深く、そして遠く、
見とおすことができました。

動く姿、
立ち居振る舞いに、
他とは異なり、
聖のしるしがありました。

皇太后摂政3年、
皇太子に立ちました。

(時に御歳三歳)

始め天皇がお腹の中にいた時、
天神地祇は三韓を授けました。

産まれる時、
肉が腕の上に生じ、
その形がほむたのようでした。

これは皇太后が男装した際に、
鞆を背負っていた物を
かたどっていました。

こういうわけで、
その名を譽田天皇と称しました。

一云は、
初め天皇は太子となって、
越国へ行き、

祭られている角鹿の笥飯大神に拝礼しました。

その時、
大神は太子と名を取り換え与えました。

そういうわけで、
大神を去来紗別神といい、
太子を誉田別尊と名づけました、と。

それならば、
大神の本名は譽田別神で、
太子の本名は去来紗別尊ということでしょう。

しかし、
証拠になるものを
見ることができません。

未に詳細はわかりません。

応神天皇とは、
八幡宮に祀られている、
神さまですね。

八幡宮の社の数は、
稲荷神社の次に多い神社。

そこに祀られいる、
応神天皇とは?
どのような方でしょうか。

本日より
応神天皇の条を読んでいきたいと思います。
お付き合いいただけたら幸いです。


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