日本書紀 巻第二十二 豊御食炊屋姫天皇 四十七
・僧正、僧都を任命する
・大臣の請願
十三日、
詔して、
「道人(おこないするひと)は、
なおも法を犯します。
なにをもって
俗人をおしえさとすのでしょうか。
故に、今から以後、
僧正(そうじょう)、僧都(そうず)
を任じなさい。
なお、
僧尼を検校(けんぎょう)しなさい」
といいました。
十七日、
観勤僧(かんろくほうし)を
僧正としました。
鞍部徳積(くらつくりのとくしゃく)を
僧都としました。
この日、
阿曇連(あずみのむらじ)(名を欠く)を
法頭(ほうず)としました。
秋九月三日、
寺及び僧尼を
校(かむがえ)して、
具にその寺が造られた縁を録(しる)し、
また、
僧尼の入道の縁、
及び出家した年月日を
録(しる)しました。
この時に当り、
寺四十六か所、
僧八百十六人、尼五百六十九人、
あわせて一千三百八十五人でした。
冬十月一日、
大臣は、
阿曇連(あずみのむらじ)(名を欠く)、
阿倍臣摩侶(あべのおみまろ)の
二臣を遣わして、
天皇に奏して、
「葛城県(かつらきのあがた)は、
元々臣の本居です。
故に、
その県によって姓名としました。
ここをもちて、
冀(こいねが)います。
常にその県を得て、
臣の封県としたいと思います」
といいました。
ここにおいて、
天皇は詔して、
「今、朕はすなわち、
蘇何(そが)から出ました。
大臣はまた朕の舅(おじ)です。
故に、
大臣の言うことは、
夜に言えば夜も明けないうちに、
日に言えば日も暮れないうちに、
何のことばでも
用いないということはありません。
然るに、今、
朕の世に、
頓(とみ)にこの県を失ったなら、
後の君は、
『愚癡(ぐち)な婦人が、
天下に臨んで
頓にその県を亡(うしな)ってしまった」
というでしょう。
どうして
ひとり朕の不賢(ふけん)ですむでしょか。
大臣もまた
不忠(ふちゅう)となります。
これは、
後の世に悪名となるでしょう」
といい、
すなわち、
聴き入れませんでした。
・道人(おこないするひと)
=どうじん・僧侶
・僧正(そうじょう)
中国の南朝と日本で仏教の僧と尼を統括するために僧侶が任命された官職(僧官)の一つ
・僧都(そうず)
僧綱 (そうごう) の一。僧正に次ぐ地位
・検校(けんぎょう)
物事を点検し、誤りを正すこと。また、その職
・法頭(ほうず)
飛鳥時代(7世紀)に設置された官職の一つ。寺院・僧尼の検校を担当したと想定される
・校(かむがえ)
調べる
・愚癡(ぐち)
愚かで思い迷い、ものの理非のわからないこと。また、そのさま
・不賢(ふけん)
賢明でないこと。思慮・分別のないこと。また、その人やさま
・不忠(ふちゅう)
国家や君主に対して尽くそうとしないさま。忠義に欠けるさま
(感想)
(推古天皇32年夏4月)
13日、
詔して、
「僧侶は、
なおも法を犯しています。
なにをもって
俗人を教え諭すのでしょうか。
ですから、
今から以後、
僧正、僧都を任命しなさい。
なお、
僧尼を調査し、
誤りを正しなさい」
といいました。
17日、
観勤僧を僧正としました。
鞍部徳積を僧都としました。
この日、
阿曇連を法頭としました。
秋9月3日、
寺および僧尼を調べて、
詳細にその寺が造られた縁起を記録し、
また、
僧尼の入道の縁、
および、出家した年月日を記録しました。
この時に当り、
寺が46か所、
僧が816人、尼が569人、
あわせて1385人でした。
冬10月1日、
大臣は、
阿曇連、阿倍臣摩侶の二臣を派遣して、
天皇に奏して、
「葛城県は、元々私の本拠地です。
ですから、
その県によって姓名としました。
そこで、
請い願います。
常にその県を得て、
私の治める県としたいと思います」
といいました。
これに対して、
天皇は詔して、
「今、朕は、蘇何から出ました。
大臣はまた朕のおじです。
ですから、
大臣の言うことは、
夜に言われれば、
夜も明けないうちに、
日に言われれば、
日も暮れないうちに、
何の言葉でも
用いないということはありません。
しかしながら、
今、朕の世に、
にわかにこの県を失ったなら、
後の君は、
『愚かで思い迷い、
ものの理非のわからないような婦人が、
天下に臨んで
にわかに
その県を失ってしまった」
というでしょう。
どうして、
朕ひとりが、
思慮・分別のないことをしたと
なるでしょうか。
いや、なりません。
大臣もまた忠義に
欠けることとなるでしょう。
これは、
後の世に悪名となります」
といい、
すなわち、
聴き入れませんでした。
推古天皇は
道理の分かる方だったのですね。
親戚のオッチャンの無茶な申し出を
理由を述べ断る。
それは、
下手をしたら、
孤立しかねない状況になるかもしれません。
しかし、はっきりと断った。
これは、
中々出来る事ではありません。
蘇我氏や聖徳太子の活躍で
影の薄い天皇ですが、
彼女がしっかりと
手綱を握っていたからこそ、
癖のある人々が
一つにまとまっていたのかもしれません。
明日に続きます。
読んでいただき
ありがとうございました。
ランキングに参加中!励みになります。
ポチッとお願いします。