日本書紀 巻第二十三 息長足日広額天皇 十三
・舒明天皇6~8年の出来事
六年秋八月、
長い星が南方に見えました。
時の人は篲星(ははきぼし)といいました。
七年春三月、
篲星が廻(まわ)り、東に見えました。
夏六月十日、
百濟は、
達率柔等(だちそちぬら)等を遣わして、
朝貢しました。
秋七月七日、
百濟の客を朝で饗(もてな)しました。
この月、
瑞(めでた)い蓮が、
劒池(ツルギノイケ)で生えました。
一の莖(くき)に二の花がありました。
八年春正月一日、
日蝕がありました。
三月、
悉く、
采女(うねめ)を犯した者を劾(しら)べ、
皆、罪を問いました。
この時、
三輪君小鷦鷯(みわのきみおさざき)は、
その推鞫(すいきく)を苦にして、
頸を刺して死にました。
夏五月、
霖雨(りんう)し、
大水(おほみづ)となりました。
六月、
岡本宮(おかもとのみや)に災いあり、
天皇は田中宮(たなかのみや)に
遷り居ました。
秋七月一日、
大派王(おおまたのおおきみ)は、
豊浦大臣(とゆらのおおおみ)に語って、
「群卿及び百寮は、
朝參をやめ、怠っている。
今から以後、
卯(う)に始まり、朝し、
巳(み)に退くように。
よってもって、
鍾で節を行え」
といいました。
然るに、
大臣は従いませんでした。
この歲、
大いに旱(ひでり)、
天下は飢えました。
・篲星(ははきぼし)
=ほうきぼし・太陽系を構成する天体の一つで,希薄なガスに包まれ,ときには長い尾を引いて,ほうきの形に見え〈ほうきぼし〉とも呼ばれる
・劒池(つるぎのいけ)
奈良県橿原市石川町
・推鞫(すいきく)
罪人などを取り調べること。吟味。推問。訊問(じんもん)
・霖雨(りんう)
幾日も降り続く雨。ながあめ
・大派王(おおまたのおおきみ)
敏達天皇の皇子
・豊浦大臣(とゆらのおおおみ)
蘇我蝦夷の事
・卯(う)
午前6時
・巳(み)
午前10時
(感想)
舒明天皇6年秋8月、
長い星が南方に見えました。
時の人は、
「ほうき星」といいました。
舒明天皇7年春3月、
ほうき星がまわり、
東に見えました。
夏6月10日、
百濟は、
達率柔等らを派遣して、
朝貢しました。
秋7月7日、
百済の客を朝廷で饗応しました。
この月、
瑞兆の蓮が、
剣池で生えました。
一つの茎に二の花がありました。
舒明天皇8年春1月1日、
日食がありました。
3月、
全ての、采女を犯した者を調べ、
皆に、罪を問いました。
この時、
三輪君小鷦鷯は、
その取り調べを苦にして、
首を刺して死にました。
夏5月、
幾日も雨が降り続け、
大水となりました。
6月、
岡本宮に火災いがあり、
天皇は田中宮に移り居ました。
秋7月1日、
大派王は、蘇我蝦夷に語って、
「群卿および百寮が、
朝参をやめ、怠っている。
今から以後は、
午前6時に始まり、
朝参し、
午前10時に退くように、
そこで、
鍾を鳴らして、
区切りとせよ」
といいました。
しかし、
大臣は従いませんでした。
この歲、
大いに日照りとなり、
天下が飢えました。
舒明天皇が即位して、
8年が過ぎました。
しかし、
ほうき星が見えたり、
日食があったりと、
現代人から見たら
仕組みがわかるので
なんとも思わないことですが、
当時の人からすると、
見た事の無い星がいきなり現れたり、
太陽が陰ったりと
不吉に思えたことでしょう。
そこに、
火災、長雨、日照り、飢餓ときたら…
人々の不安そうな表情が脳裏に浮かびます。
さてこの後は、
どうなるのでしょうか。
明日に続きます。
読んでいただき
ありがとうございました。
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