リートリンの覚書

日本書紀 巻第十六 小泊瀬稚鷦鷯天皇 七 ・小泊瀬舎人を置く ・麻那君を留める ・弓で射落とす ・百済王、斯我君を派遣 ・武烈天皇の戯れ ・崩御



日本書紀 巻第十六 小泊瀬稚鷦鷯天皇 七

・小泊瀬舎人を置く
・麻那君を留める
・弓で射落とす
・百済王、斯我君を派遣
・武烈天皇の戯れ
・崩御



六年秋九月一日、
詔して、
「国の機を伝えるのは、
子を立てて貴いとする。

朕には継嗣がない。
何をもって名を伝えよう。

天皇の旧例(ふること)によって、
小泊瀬舎人を置き、

代の名として、
万歳(よろずとせ)も忘れぬようにしろ」
といいました。

冬十月、
百済国は、
麻那君(まなきし)を遣して、
調(みつき)を進めました。

天皇は、
百済が年を経て貢職(みつき)を
おさめないと思い、
留めて放しませんでした。

七年春二月、
人を樹に昇らせ、
弓で射落(うちおと)して笑いました。

夏四月、
百済王は、
斯我君(しがきし)を遣して、
調を進めました。

別に表して、
「前に調を進めた使の麻那は、
百済国の主(にりむ)の
骨族(やから)ではありません。

故に、
謹んで斯我(しが)を遣わして、
朝(みかど)に仕え奉らせます」
といいました。

遂に、子があり、
法師君(ほうしきし)といいました。
倭君の祖先です。

八年春三月、
女を裸形にして、
平板の上に座らせ、

馬をひいて、
前にいき交接させました。

女の不浄(ほとどころ)を見て、
濡れた者は殺しました。

濡れていない者は、
沈(から)ませ、
官婢(つかさやつこ)としました。

これを楽しみとしました。

この時に及び、
池を穿ち、
苑を起こし、
禽獣をあつめました。

また田獵(でんりょう)を好み、
犬を走らせ、
馬を試しました。

出入りも時なく、
暴風大雨も避けませんでした。

衣は温かくして百姓の寒さを忘れ、
うまいものを食し天下の飢えを忘れました。

大いに侏儒(さきひと)や
倡優(わざおき)を進め、

爛(ただ)れ、
みだれた囃子(はやし)の楽をし、

奇(あや)しい戯(たわむれ)を設け、
ふしだらな声を思うまま発しました。

日夜、
常に宮人(みやひと)と
酒に沈湎(ちんめん)し、

錦繡(きんしゅう)を
もって席としました。

綾紈(りょうがん)を
きたものが多くいました。

冬十二月八日、
天皇が列城宮(なみきのみや)で崩じました。



・骨族(やから)
同族
・不浄(ほとどころ)
=女性器
・田獵(でんりょう)
狩りをすること。狩猟
・侏儒(さきひと)
=しゅじゅ・1・こびと。2・見識のない人をののしっていう言葉
・倡優(わざおき)
=しょうゆう・役者、芸人、わざおぎ
・宮人(みやひと)
後宮の女
・沈湎(ちんめん)
飲酒などにふけり溺れること。すさんだ生活をすること
・錦繡(きんしゅう)
1・錦と刺繍をした敷物2・美しい織物。立派な衣装
・綾紈(りょうがん)
あや織りの白いねり絹。それでつくった衣装



(感想)

武烈天皇6年秋9月1日、
詔して、
「国の政を伝えるのは、
子を立てて貴いとする。

しかし、
朕には継嗣がない。
何をもって名を後世に伝えよう。

天皇の旧例(ふること)によって、
小泊瀬舎人を置き、

朕の代の名として、
万歳(よろずとせ)も忘れぬようにしろ」
といいました。

冬10月、
百済国は、
麻那君を派遣して、
調(みつき)を進上しました。

しかし、
天皇は、
百済が年を経て貢職(みつき)を
おさめないと思い、
麻那君を留めて放しませんでした。

武烈天皇7年春2月、
天皇は人を樹に昇らせ、
弓で射落(うちおと)して笑いました。

夏4月、
百済王は、
斯我君(しがきし)を派遣して、
調を進上しました。

別に表して、
「前に調を進めた使の麻那は、
百済国の主(にりむ)の同族ではありません。

ですから、
謹んで斯我(しが)を派遣して、
朝(みかど)に仕え奉らせます」
といいました。

遂に斯我には、子がいて、
法師君(ほうしきし)といいました。
倭君の祖先です。

武烈天皇8年春3月、
天皇は、
女を裸体にして、
平板の上に座らせ、
馬を引いて前に行き、
交接させました。

女の不浄(ほとどころ)を見て、
濡れた者は殺しました。

濡れていない者は官の位を落として、
官婢(つかさやつこ)としました。

これを楽しみとしました。

…何か。
無理矢理なお話ですね。

本当にあった話し?

この時に及び、
池を掘り、
苑を造り、
禽獣をあつめました。

また狩猟を好み、
犬を走らせ、
馬を試しました。

出入りも定めた時なく、
暴風大雨も避けませんでした。

衣は温かくして百姓の寒さを忘れ、
うまいものを食し、
世の中の飢えを忘れました。

大いに見識のない者や芸人を進んで呼び、

爛(ただ)れ、
みだれた囃子(はやし)の楽を演奏し、

奇(あや)しい戯(たわむれ)を設け、
ふしだらな声を思うまま発しました。

日夜、
常に後宮の女と飲酒などにふけり溺れ、
すさんだ生活をし、

豪華な
錦と刺繍をした敷物をもって席としました。

きらびやかな、
あや織りの白いねり絹でつくった衣装を
着たものが多くいました。

武烈天皇冬12月8日、
天皇が列城宮で崩じました。

本日で武烈天皇の条、終了です。

読んでいて、
違和感が半端ない条でした。

疑問を感じ、
古事記と見比べて見ると。

古事記には、
残忍な行為をしたという記載は
全くありません

もしかすると、
口伝で
刑罰ばかりやっていた天皇
と伝わっていたのでは?

つまり、
法治主義的な方だったのではないかと、
個人的に思いました。

法治主義とは、
人の本性を悪であるとし、人の善性に期待せず、徳治主義を排斥して、法律の強制によって人民を統治しようとする主義。

刑罰ばかりやっていた天皇と聞いた
日本書紀を編纂した方が。

武烈天皇御代。

当時、
日本で行われた罰がよくわからない?

そこで、
大陸で行われていた刑罰を
書き記したのではないかと。
(個人的な意見です)

そして、
刑罰好きだった大陸の君主をモデルに

武烈天皇に
当てはめただけのよう気がします。

何故、大陸の刑罰が?

それは、
日本書紀の編纂には、

やたらと、
百済国の話しが出てくる。

ですから、
百済国から帰化した方が
かなり携わっている気がします。

個人的には、

武烈天皇は、

人に裏切られ、
人が信じられず。

法が全て。
罪を犯した者は容赦せず、罰する。

クソ真面目で、
融通が効かない人だったのでは?
と感じました。

さて、
世継ぎが絶えてしまいました。

今後、
日本はどうなるのでしょうか?

継体天皇の条に続きます。

読んで頂き
ありがとうございました。


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