リートリンの覚書

日本書紀 巻第十九 天国排開広庭天皇 四 ・大伴大連金村の憂い



日本書紀 巻第十九 天国排開広庭天皇 四

・大伴大連金村の憂い



九月五日、
難波の祝津宮(はふりつのみや)に
幸しました。

大伴大連金村
(おおとものおおむらじかなむら)、
許勢臣稲持
(こせのおみいなもち)、
物部大連尾輿
(もののべのおおむらじおこし)等が
従いました。

天皇は諸臣に問うて、
「幾ばくかの軍卒をもってなら、
新羅を伐つことができるのか」
といいました。

物部大連尾興が奏して、
「少しばかりの軍卒では、
新羅をたやすく征することできません。

先の男大迹天皇六年に
百済は使いを遣わして、

任那の
上哆唎(おこしたり)、
下哆唎(あろしたり)、
娑陀(さだ)、
牟婁(むろ)
の四県を表して請いました。

大伴大連金村は、
たやすく表の請いのとおりに、
求める所を許して賜いました。

これによりて、
新羅の怨むこと積年(せきねん)なのです。

たやすく伐つべきではありません」
といいました。

ここにおいて、
大伴大連金村は、
住吉(すみのえ)の宅に居て、
病と称して、
朝に出ませんでした。

天皇は、
青海夫人勾子(あおみのおおとじのまがりこ)
を遣わして、

慇懃(いんぎん)に慰問(いもん)しました。

大連はかしこまりて、
「臣が病む所は、
余事(あたしこと)ではありません。

今、
諸臣等は、
臣が任那を滅ぼしたと謂っています。

故に、
恐怖して朝しないだけです」
といいました。

すなわち、
鞍馬(かざりうま)を使いに贈り、
厚く敬いました。

青海夫人は、
あるがままに申し奏しました。

詔して、
「久しく忠誠をつくした。
衆の口など憂えるな」
といいました。

遂に、
罪にすることなく、
深く優寵(ゆうちょう)しました。

この年、
太歳は庚申(かのえさる)。



・積年(せきねん)
長い年月
・慇懃(いんぎん)
1・礼儀正しく、丁寧なこと2・親しい交わり。よしみ
・慰問(いもん)
(病気・災害などで苦しみ悩んでいる人を)訪ね慰めること
・余事(あたしこと)
私事
・優寵(ゆうちょう)
天子が特別に寵愛すること。また、手厚くいつくしむこと



(感想)

欽明天皇元年9月5日、

難波の祝津宮に行幸しました。

大伴大連金村、許勢臣稲持、物部大連尾興等が
従いました。

天皇は諸臣に問うて、
「幾ばくかの軍卒をもってなら、
新羅を伐つことができるのか?」
といいました。

物部大連尾興が奏して、
「少しばかりの軍卒では、
新羅を容易く征することできません。

先の男大迹天皇六年に百済は、
使者を派遣して、

任那の上哆唎、下哆唎、娑陀、牟婁の四県を
上表して請いました。

大伴大連金村は、
軽々しく上表の請いのとおりに、
求める所を許して百済に与えました。

これによりて、
新羅の怨むこと積年(せきねん)なのです。
容易く伐つべきではありません」
といいました。

ここにおいて、
大伴大連金村は、
住吉の宅に居て、

病と称して、
朝廷に出ませんでした。

天皇は、
青海夫人勾子を派遣して、

慇懃(いんぎん)に慰問(いもん)しました。

大連はかしこまりて、
「私が病む所は、
私事ではありません。

今、
諸臣等は、
臣が任那を滅ぼしたと言っています。

故に、
恐怖して朝参しないだけです」
といいました。

すなわち、飾り馬を使者に贈り、
厚く敬いました。

青海夫人は、
あるがままに報告しました。

詔して、
金村は久しく忠誠をつくした。
衆の口など憂えるな」
といいました。

遂に、
罪にすることなく、
深く手厚くいつくしみました。

この年、太歳は庚申(かのえさる)。


物部大連尾興、厳しい。

まぁ、
物部氏は
任那四県の割譲の際、
後世に批判されないように
策を立てましたからね。

物部麁鹿火(もののべのあらかび)は、
継体天皇6年(512年)12月、

百済へ任那四県の割譲の際、
麁鹿火は百済の使者に
割譲の容認を伝える宣勅使となりましたが、

妻が機転を働かせて、
後世に批判されぬよう、
病と称してその役を辞退させました。

大伴大連金村が仮病を使ってまで、
朝廷に参上できないくらいですから、
相当、避難の声が高かったのでしょう。

まぁ、
確かに、

もう少し思慮を巡らせていたら、
任那の件は違ったのかもしれません。

明日に続きます。

読んで頂きありがとうございました。


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