長髓彦
(ながすねひこ)
神武東征の際、大和地方で抵抗した豪族の長。
・別名
那賀須泥毘古
登美能那賀泥毘古(とみのながすねひこ)
登美毘古(とみびこ)
「日本書紀」では
本文では、このように登場しています。
“四月九日、皇軍は兵と整えて、徒歩で龍田(たつた・奈良県王寺町辺)に進軍しました。しかし、その道は、狭く険しい道で、軍勢は隊列を組んで行くことが出来ませんでした。そのためいったん後退して、さらに東の生駒山を越えて、中洲(なかつくに)に入ろうとしました。この時、長髓彦(ながすねひこ)がこれを聞きつけて、「天神の子らがやって来るわけは、きっと我が国を奪おうとしているのだろう」といい、すぐさま全軍を率いて、孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち、会戦となりました。“
大和地方で抵抗した豪族の長です。
長髓彦は
神武天皇より先に大和の地に
飛び降りていた饒速日命を
君としていました。
ですから、
神武天皇に帰順することはせず、
皇軍と戦います。
一方饒速日命は、
天神の懇ろな配慮を受けられるのは、
天孫だけが受けられることであることを
知っていました。
そしてまた、
長髓彦は素より反抗的な性質でしたし、
天孫と人との違いを説いても
理解することは出来ない
と判断し長髓彦を殺しました。
兄猾
(えうかし)
記紀に登場する大和国宇陀の豪族。
・別名
兄宇迦斯(えうかし)
「日本書紀」では
本文では、このように登場しています。
”秋・八月二日、天皇は兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を召集しました。この二人は、菟田の県(あがた)の首長です。兄猾は来ませんでしたが、弟猾は速やかに参上しました。”
神武東征に服属せず、
天皇の暗殺を企てましたが、
弟の弟猾(おとうかし)に
密告されて自ら仕掛けを踏み圧死しました。
弟猾
(おとうかし)
記紀に登場する大和宇陀の豪族の長。
・別名
弟宇迦斯(おとうかし)
「日本書紀」では
本文では、このように、登場しています。
”秋・八月二日、天皇は兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を召集しました。この二人は、菟田の県(あがた)の首長です。兄猾は来ませんでしたが、弟猾は速やかに参上しました。”
神武東征の際、
神武天皇を暗殺しようとした
兄・兄猾(えうかし)の計画を密告。
功績により猛田邑(たけだのむら)を
与えられました。
そのほか
・弟猾は、
水を司る主水部(もひとりべ)の
祖ともなっています。
八十梟帥
(やそたける)
数多くの勇者という意味で使われます。
・別名
八十建(古事記)
「日本書紀」では
本文では、このように登場しています。
“天皇はある菟田の高倉山の山頂に登り、国中の様子を眺望されました。その時、国見丘の上には八十梟帥(やそたける)という者がいました。”
日本書紀では他に、
・磯城の八十梟帥
倭国の磯城(しき・桜井市辺)の邑にいた
八十梟帥。
・赤胴の八十梟帥
高尾張(たかおわり・御所市西南部)の邑(或る本では葛城邑)にいた、八十梟帥。
が記述されています。
感想
今日ご紹介した日本書紀に登場した人物、
祀られている神社を探してみましたが、
見つかりませんでした。
いや〜、
何度調べても
長髓彦が不憫です。
妹は、
手厚く祀られているのに…
兄は、祀られていません。
流石に、
皇軍に対抗した勢力ですから、
表だって祀っていないのかもしれません。
しかし、
日本には怨霊を手厚く祀り慰める
怨霊信仰がありますから、
何処にいらっしゃるのかもしれませんね。
さて、本日はこれにて。
明日も日本書紀に登場した人物を
詳しくまとめてみます。
最後まで読んで頂き
ありがとうございました。