リートリンの覚書

日本書紀巻弟十に登場する人物 三 ・直支 ・真毛津 ・阿直伎 ・久爾辛 ・木満致 ・久礼波 ・久礼志 ・新斉都媛


日本書紀巻弟十に登場する人物 三

・直支
・真毛津
・阿直伎
・久爾辛
・木満致
・久礼波
・久礼志
・新斉都媛


直支
(とき)


百済の王子


別名


腆支王(てんしおう)
余映
直支王(ときおう)
眞支王
夫余腆


「日本書紀」では


日本書紀 巻第十
百済記では、
このように登場しています。

“そこで王子・直支を天朝に派遣して、先王の好みを修めました。”

百済記では、
阿花王が立って、貴国に無礼でした。

それで、
貴国は枕彌多禮(とむたれ)、
峴南(けんなむ)、支侵(ししむ)、
谷那(こくな)、東韓(とうかん)
の地を奪いました。

そこで王子直支を天朝に派遣して、
先王のよしみを修めました。
、とあります。

また本文では、

応神天皇16年、
百済王・阿花王(あかおう)が薨じました。
そこで天皇は直支王(ときおう)を
召しだして、
「汝、国に帰って位を継げ」といいました。
そして東韓の地を授け、百済に遣わしました。

応神天皇25年
百済の直支王が薨じました。


真毛津
(まけつ)


来目の衣縫の始祖


「日本書紀」では


日本書紀 巻第十
本文では、
このように登場しています。

“十四年春二月、
百済王が、縫衣工女を貢しました。真毛津といいます。今の来目の衣縫の始祖です。"

百済王が献上した
縫衣工女(きぬぬいおみな)です。

来目衣縫の始祖です。


阿直伎
(あちき)


百済人
太子・菟道稚郎子の師


別名


阿知吉師


「日本書紀」では


日本書紀 巻第十
本文では、
このように登場しています。

“十五年秋八月六日、
百済王が、阿直伎を遣わして、良馬二匹を貢りました。軽坂の上の厩で養いました。阿直伎に飼うことを掌らせました。“

応神天皇15年秋8月6日、
百済王が阿直伎(アチキ)を派遣して、
良馬二匹を献上しました。

その馬を軽坂の上の厩(うまや)で
養いました。

そして、
阿直伎に飼うことを司らせました。

それで、
その馬を養ったところを厩坂と呼びました。

また、
阿直伎は経典を読むことができました。
太子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が
師とされました。

天皇は阿直伎に、
「汝よりも優れた博士はいるのか?」
問いますと

「王仁(わに)という者がおります。
これが秀れています」
と答えました。

阿直伎者は、
阿直伎史(あちきのふひと)の始祖です。


そのほか


・滋賀県犬上郡にある阿自直伎神社の祭神であり、子孫が始祖を祀ったともいわれています。現在、阿自直伎神社の主祭神は、味耜孝彦根神(あじすきたかひこねのかみ)です。味耜孝彦根神は朝廷と深いかかわりのあった、百済からの渡来人・阿自伎氏ではないかといわれていますが。

個人的には、
味耜高彦根神が記紀に登場したのは、葦原中国平定に遣わされた神、天稚彦(アメノワカヒコ)の妻・シタテルヒメの兄として登場しており、
時代背景が全く違うので、名前が似ているだけで別人と考えています。


久爾辛
(くにしん)


百済王


別名


久爾辛王
久尓辛王(くにしんおう)


「日本書紀」では


日本書紀 巻第十
本文では、
このように登場しています。

“二十五年、百済の直支王が薨じました。子の久爾辛が立って王となりました。”

応神天皇25年、
百済の直支王(とき)が薨じました。
そこで、子の久爾辛が立って王となりました。

しかし、
王は幼少で木満致(もくまんち)が
国政を行いました。

その木満致は、
王の母と愛人関係で、
無礼な行いが多く、
それを聞いた天皇は召し出しました。


木満致
(もくまんち)


木羅斤資の子
百済の国政を執ったとされる


「日本書紀」では


日本書紀 巻第十
本文では、
このように登場しています。

“王は、年は幼少で木満致が国政を行いました。王の母と淫らな男女関係で、無礼な行いが多く、それを聞いた天皇は、召し出しました。”

応神天皇25年、
百済の直支王(ときおう)が薨じました。

そこで、
子の久爾辛(くにしん)が
立って王となりましたが。

王は幼少で木満致(もくまんち)が
国政を行いました。

しかし木満致は、
王の母と愛人関係で、
無礼な行いが多く、
それを聞いた天皇は召し出しました。

また百済記では、
木満致は木羅斤資(もくらこんし)が、
新羅を討った時に、
その国の婦を娶り生まれました。

その父の功により、
任那(みまな)を専任し、
百済に来て、
貴国と往還(おうかん)しました。

天朝の制(せい)を承けて、
百済国の政を執行しました。
権は重く国政をみました。

しかし天朝は、
その暴を聞き召したとあります。


久礼波
(くれは)


高麗の道案内


「日本書紀」では


日本書紀 巻第十
本文では、
このように登場しています。

“高麗王は、久礼波、久礼志の二人を副えて、導者としました。おかげで、呉に通ることができました。”

応神天皇37年春2月1日、
阿知使主(あちのおみ)、
都加使主(つかのおみ)を
呉(くれ)に遣わして、
縫工女(きぬぬいめ)を求めさせました。

この時、
阿知使主らは高麗国に渡り、
呉に達しようと思い、
高麗に行きましたが、
さらに呉に向かう道を知りませんでした。

そこで、
道を知る者を高麗に乞いました。

高麗王は、
久礼波(くれは)、久礼志(くれし)の
二人を副(そ)えて、
道案内としました。

おかげで呉に到着することができました。


久礼志(くれし)


高麗の道案内


「日本書紀」では


日本書紀 巻第十
本文では、
このように登場しています。

“高麗王は、久礼波、久礼志の二人を副えて、導者としました。おかげで、呉に通ることができました。”

応神天皇37年春2月1日、
阿知使主(あちのおみ)、
都加使主(つかのおみ)を
呉(くれ)に遣わして、
縫工女(きぬぬいめ)を求めさせました。

この時、
阿知使主らは高麗国に渡り、
呉に達しようと思い、
高麗に行きましたが、
さらに呉に向かう道を知りませんでした。

そこで、
道を知る者を高麗に乞いました。

高麗王は、
久礼波(くれは)、久礼志(くれし)
の二人を副(そ)えて、
道案内としました。

おかげで呉に到着することができました。


新斉都媛
(しせつひめ)


百済の直支王の妹


別名


新済都媛


「日本書紀」では


日本書紀 巻第十
本文では、
このように登場しています。

“三十九年、春二月、百済の直支王が、その妹の新斉都媛を遣わして、仕えさせました。”

応神天皇39年春2月、
百済の直支王(とき)が、
その妹の新斉都媛(しせつひめ)を遣わして、
天皇に仕えさせました。
新斉都媛は七人の婦女を率いて、
来帰しました。



勉強途中ですので
新しい知識を得た場合
随時更新予定です。


ランキングに参加中!励みになります。
ポチッとお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 神話・伝説へ  

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

最近の「日本神話に登場する人物・生物」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事