名所江戸百景を訪ねて
名所江戸百景を訪ねて
第82景 「高輪うしまち」
画面の近景には牛車の車輪。その側には食い散らかされた西瓜の皮と使い古されたわらじが一足捨てられています。そのわらじをくわえてあそぶ子犬の姿。
品川沖に見える台地は、お台場です。
夕立の後でしょうか?空には虹が描かれています。
高輪
高輪の地名は、戦国時代の軍記物語の中に「高縄原」として書かれていることに由来します。
江戸時代には江戸の町はずれで、町人町の他にも高台には諸蕃の下屋敷(別荘)が置かれていました。
高輪は東海道から江戸府内の玄関口にあたり、大木戸が設けられていました。
高輪大木戸跡
史跡高輪大木戸跡所在地 港区高輪二丁目十九番指定 昭和三年二月七日高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永七年(1710)に芝口門にたてたられたのが起源である。享保九年(1724)に現在地に移された。現在地の構造年には宝永七年説・寛政四年(1792)など諸説がある。江戸の南の入口として、道幅役六間(約十メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止とし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。天和二年(1682)には、札の辻(現在の港区芝五の二九の十六)から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰・常磐橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外とともに江戸の六大高札場の一つであった。京登り、東下り・伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当日は品川宿にいたる海岸の景色もよく月見の名所でもあった。江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、海岸側に幅五・四メートル、長さ七・三メートル、高さ三・六メートルの石垣のみが残されている。四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の産業土木に関する史跡として重要である。震災後は「史蹟名勝天然記念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。平成五年三月三一日 建設東京都教育委員会
高輪牛町
現在の東京都港区高輪二丁目です。
芝車町は、資材運搬などのために京都から牛車を用いた運搬業者が呼び寄せられ、その人々が住む町でした。そこで俗称牛町といいました。
お台場
1853年(嘉永6年)、ペリー艦隊が来航して幕府に開港を要求しました。これに脅威を感じた幕府は、老中首座の阿倍正弘の命で品川台場(お台場)を築造しました。埋め立てに用いた土は高輪の八ツ山や御殿山を切り崩して調達しました。
描かれた場所は
現在どのようになっているのでしょうか?
訪ねてみました。
高輪大木戸跡より海側を望んで見ましたが、訪れた時には、工事中でした。
海は埋め立てられ江戸時代の海岸線は残っていません。
少しでも遠くを撮影してみたい。
そこで高輪ゲートウェイから海側を望んでみました。
高い所なら、海が見えるかもと思いましたが、ここからも海は見えませんでした。
最後に
調べてみますと。江戸時代に築かれたお台場。沖からかなり離れた場所に造られています。手作業で山を切り崩し、沖合まで運んだとは、当時の人々の体力に驚きます。
現在も第三台場(現在は台場公園)と第六台場(無人島)が残っています。
いやはや、無人島を手作業で作り上げるとは。江戸時代の人々のすごいですね。
第81景 「金杉橋芝浦」<<<>>>第83景 「月の岬」
参考
Wikipedia
太陽の地図帖 広重「名所江戸百景」の旅