リートリンの覚書

日本書紀 巻第十九 天国排開広庭天皇 四十 ・蘇我臣、寺を建てる ・疫病が流行する ・仏像等を廃棄する



日本書紀 巻第十九 天国排開広庭天皇 四十

・蘇我臣、寺を建てる
・疫病が流行する
・仏像等を廃棄する



大臣は、
跪いて受け、
よろこびました。

小墾田(おはりだ)の家に安置し、
ねんごろに出世の業を修め、
因(よすが)としました。

向原の家(むくはらのいへ)を
浄めはらいして、
寺としました。

後に国に疫(やまい)がおきて、
民がたちまち死んでしまいました。

久しくたつと、
ますます多く、
よく治療することができませんでした。

物部大連尾輿
(もののべのおおむらじおこし)、
中臣連鎌子
(なかとみのむらじかまこ)等は、

同じく奏して、
「昔、あの日、
臣の計りを用いなかったことにより、
この病死に到りました。

今、
遠からず、
ひきかえしたなら、
必ずまさに慶(よ)いことがあるでしょう。

よろしく、
早く投棄し、
懇ろに後の福(さいわい)を求めるべきです」
といいました。

天皇は、
「奏したことをたよりにしよう」
といいました。

有司は、
すなわち、
仏像を難波の堀江に流し棄てました。

また伽藍(がらん)に火を放ちました。
焼きつくしてなにも残りませんでした。

ここにおいて、
天に風も雲もないのに、
忽ち大殿に炎があがりました。

この歳、
百済は、
漢城と平壌とを棄てました。

新羅は、
因って、漢城に入居しました。

今の新羅の牛頭方(ごづほう)、
尼弥方(にみほう)です。
(この地名は、未詳です)



・伽藍(がらん)
てら
向原寺(こうげんじ)
奈良県高市郡明日香村にある浄土真宗本願寺派の寺院。別名広厳寺。本尊は阿弥陀如来。境内地は百済から日本へ献上された仏像を蘇我稲目が祀った「向原の家(むくはらのいへ)」の故地とされ、7世紀には推古天皇の豊浦宮や日本最古の尼寺である豊浦寺が営まれた。
・牛頭方(ごずほう)
牛頭州=江原道春川



(感想)


(欽明天皇13年冬10月)

大臣は、
跪いて受け、
喜びました。

小墾田の家に安置し、
ねんごろに仏道を修め、
縁としました。

向原の家を浄め祓いして、
寺としました。

後に国に疫病が流行し、
民がたちまち死んでしまいました。

時が経つと、
ますます多くなり、
治療することができませんでした。

物部大連尾輿、中臣連鎌子等は、
同じく奏して、
「昔、あの日、
私の考えを用いなかったことにより、
この病死に至ったのです。

今からでも、
遅くはありません。

引き返したなら、
必ずまさに良いことがあるでしょう。

よろしく、
早く仏像を投棄し、

懇ろに後の幸いを求めるべきです」
といいました。

天皇は、
「奏したことを頼りにしよう」
といいました。

有司は、
すぐに、
仏像を難波の堀江に流し棄てました。

また寺に火を放ちました。
焼き尽くしてなにも残りませんでした。

ここにおいて、
天に風も雲もないのに、

たちまち、
大殿に炎があがりました。

あちら立てればこちらが立たぬ。
難しいですね。

この歳、
百済は、
漢城と平壌とを棄てました。

新羅は、よって、
漢城に入居しました。

今の新羅の牛頭方、尼彌方です。

明日に続きます。

読んで頂き
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