思惟山正受院浄業三昧寺
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概要
正受院(しょうじゅいん)は、東京都北区滝野川二丁目にある浄土宗の寺院です。
水こや赤ちゃんを供養する納骨堂があることから、「赤ちゃん寺」とも呼ばれています。
本尊
阿弥陀如来
創建
弘治年間
別名
正受院は赤ん坊の納骨や供養をしていることから「赤ちゃん寺」と呼ばれています。
略縁起
伝承によりますと、室町時代の弘治年間(1555~1558)に、大和国(現・奈良県)で修行をしていた学仙房という僧が、霊夢によって同地を訪れ、正受院を開いたと言われています。
境内
本堂
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山門
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不動堂
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石造近藤守重坐像
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石造近藤守重坐像正受院本堂前所在坐像は、現在の千島列島から北海道までの蝦夷地を探検し、エトロフ島に「大日本恵土呂府」という標柱をたてた近藤守重の肖像です。守重は、明和八(一七七一)年、江戸町奉行所与力の次男として生れ、家督を継いで、通称を重蔵、号を正斎と称しました。寛政十(一七九八)年三月、幕府から蝦夷地の調査を命じられ、北方交易の海商高田屋嘉兵衛の協力で、石像のように、甲冑に身を固めてエトロフ島に渉り、現地の開発に尽力しました。また、利尻島の探検にも参加し、蝦夷地についての著書も著しましたが、文政五(一八二二)年から九年までの四年間を、正受院の東隣に、滝野川文庫という書斎を設けて住みました。石像近藤守重坐像は、この記念に、江戸派の画家として著名だった谷文晁に下絵を依頼して制作したと伝えられます。平成元年三月 北区教育委員会
そのほか
不動の滝跡
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不動の滝跡正受院本堂裏所在王子七滝の一つ、「不動の滝」は、泉流の滝とも称され、正受院本堂裏の峡から坂道を石神井川に下った所にありました。『江戸名所図会』は、この地の江戸時代後期の景観を次のように説明しています。正受院の本堂の後、坂路を廻り下る事、数十歩にして飛泉あり、滔々として峭壁に趨(はし)る、此境は常に蒼樹蓊欝として白日をさゝえ、青苔露なめらかにして人跡稀なり室町時代、大和国に学仙坊という不動尊の祈祷を修行する僧がいた。ある時、霊夢を見て、東国の滝野川の地を訪れ、庵を結んで正受院を草創した。この年の秋、石神井がわが増水したが、水の引いた川から不動の霊像をすくいあげた。学仙坊は、これを不動尊修法を感得した証と喜び、滝の傍らに安置した、と伝えられます。江戸時代には、病気治癒祈願や涼をもとめる人で賑わいました。令和二年三月 東京都北区教育委員会
住所
東京都北区滝野川2-49-5
アクセス
JR京浜東北線・東京メトロ南北線・
都電荒川線
王子駅
徒歩7分
最後に
境内にはモフモフの猫様がいらっしゃりました。
一瞬連れて帰ろうかと思ったくらい可愛かったです。
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参考
Wikipedia