リートリンの覚書

133・日本の神様・稲置大山主 ・稲置大山主 ・田道


133・日本の神様・稲置大山主

・稲置大山主
・田道


稲置大山主
(いなきおおやまぬし)


闘鶏国造


別名


闘鶏大山主(つげのおおやまぬし)
闘鶏稲置大山主命
国造大山主君


「日本書紀」では


日本書紀 巻第十一 
本文では、
このように登場しています。

“そこで闘雞の稲置大山主を呼び、問いました。「かの野中にあるのは、なんの窟だ」答えて、「氷室です」といいました。“

仁徳天皇62年、
額田の大中彦皇子が、
闘雞(つげ)で猟をしました。

その際、
皇子は山の上から望んで、
野の中を見ると、
物があり、
すぐに使者を遣わして見させると、
それは窟(むろ)でした。

そこで闘雞の稲置大山主を呼び、
何の窟か問うと、
それは氷室(ひむろ)でした。

また、
どういうふうに納めているのか。
またなににつかうのだと、
質問すると、
稲置大山主は、

土を一丈余り掘ります。
草でその上をおおいます。
厚く茅(かや)や薄(すすき)を敷いて、
その上に氷を取って置きます。
夏の月を経ても消えません。
用い方は熱い月には、
水や酒に漬けて用います、

と答えました。

そこで皇子はその氷を持ってきて、
御所に献上しました。
天皇は喜びました。


祀る神社


氷室神社(奈良県奈良市)


田道
(たじ)


竹葉瀬の弟


別名


上毛野田道(かみつけののたぢ)
上毛野田道命


「日本書紀」では


日本書紀 巻第十一 
本文では、
このように登場しています。

“しばらくして、重ねて竹葉瀬の弟・田道を遣わしました。詔して、「もし新羅が拒んだら、兵を挙げて撃て」といいました。それで精兵を授けました。”

仁徳天皇53年、
新羅が朝貢しませんでした。

そこで夏5月、
上毛野君(かみつけの)の祖、
竹葉瀬(たかはせ)を派遣して、
朝貢しなかったことを問うことにしました。

しばらくして、
重ねて竹葉瀬の弟・田道(たじ)を
遣わしました。

その際、
新羅が拒(こば)んだら、
兵を挙げて撃て、
と詔し精兵を授けました。

新羅は兵を起して拒みました。
新羅人は毎日戦いを挑んできました。

田道は塞を固めて出ませんでした。

その時、
新羅の軍卒の一人を捕らえて
俘(とりこ)としました。

その者から、

新羅軍には強力者がおり、
名を百衝(ももつき)といい、
いつも軍の右の先鋒となっています。
伺って左を撃てば
そくざに敗れるでしょう

との情報を得ました。
そして、
新羅軍を破ることができました。
そして四邑の人民を虜にして帰ってきました。

仁徳天皇55年、
蝦夷が叛きました。
そこで田道を遣わして撃たせましが、

その時、
蝦夷のために敗れ、
伊峙(いし)の水門(みなと)で
死んでしまいました。

時に、
従者がいて、
田道の手纏(たまき)を取って得ました。
その妻に与えました。
手纏を抱いて縊死(いし)しました。

この後、
蝦夷はまだ襲って人民を略奪しました。

そして、
田道の墓を掘りましたが、
そこには大蛇がいて、
目から怒りを発して墓から出て咋いました。

蝦夷はみな蛇の毒をうけて、
多くが死亡しました。

ただ一人、
二人がまぬがれただけでした。


祀る神社


豊平神社(北海道札幌市)
猿賀神社(青森県平川市)


ランキングに参加中!励みになります。
ポチッとお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 神話・伝説へ  

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

最近の「日本の神様」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事