リートリンの覚書

日本書紀 巻第七 大足彦忍代別天皇 十七 ・皇后の薨去 ・東国への行幸 ・六雁臣、膳大伴部を授かる ・綺宮 ・彦狭嶋王の薨去 ・御諸別王、東国を治める ・崩御


日本書紀 巻第七 
大足彦忍代別天皇 十七


・皇后の薨去
・東国への行幸
・六雁臣、膳大伴部を授かる
・綺宮
・彦狭嶋王の薨去
・御諸別王、東国を治める
・崩御



五十二年、夏五月四日、
皇后播磨太郎姫(はりまのおおいたつめ)
崩御しました。

秋七月七日、
八坂八媛命(やさかいりひめ)
皇后に立てました。

五十三年、秋八月一日、
天皇は群卿に詔して、
「朕が愛し子を顧みることは、
いつになったら止まるのだろうか。

願わくは、
小碓王の平定した国を
巡狩(じゅんしゅ)したいと思う」
といいました。

この月、天皇は、
伊勢に行幸し、
転じて東海に入りました。

冬十月、
上総(かずさ)の国に至り、
海路から淡水門(あわのみなと)に渡りました。

この時、
覚賀鳥(かくか)の声が聞こえました。

その鳥の形が見たいと思い、
尋ねて海の中に出ました。

それで白蛤(うむき)をとることができました。

そこで、
膳臣(かしわでのおみ)の遠祖、
名は磐鹿大雁(いわかむつかり)が、

(かま)を以て襷(たすき)して、
白蛤を膾(なます)にして進めました。

そこで、
六雁臣(むつかりのおみ)の功を誉めて、
膳大伴部(かしわでのおおともべ)を授けました。

十二月、
東国から還って、伊勢に居ました。
これを綺宮(かにはたのみや)といいます。

五十四年、秋九月一九日、
伊勢から倭に還り、
纒向宮に居ました。

五十五年、春二月五日、
彦狭嶋王(ひこさしま)が、
東山道十五国の都督に任命されました。

これは豊城入彦命の孫です。

然るに、
春日の穴昨邑(あなくいのむら)に到着して、
病に臥して薨去しました。

この時、
東国の百姓は、
その王が来られなかったことを悲しみ、
ひそかに王の尸(かばね)を盗み、
上野国に葬りました。

五十六年、秋八月、
御諸別王(みもろわけおう)に詔して、
「汝の父、彦狭嶋王は、
任命した所に向かうことができずに
早く亡くなった。

故に、汝が、
もっぱら東国を領(おさ)めよ」
といいました。

是を以て、
御諸別王は、
天皇の命を承け、
かつは父業を成就したいと思いました。

そこで、
そこに行き統治して、
早く善政をしくことができました。

時に、蝦夷が騒動しました。
すぐに兵を挙げて撃ちました。

蝦夷の首領足振辺(あしふりべ)
大羽振辺(おおはふりべ)
遠津闇男辺(とおつくらおべ)等が、

叩頭(こうとう)して来て、
頓首(とんしゅ)して罪を受け、
ある限りの土地を献上しました。

これをもって、
降伏する者はゆるし、
服属しないのは誅殺しました。

是を以て、
東国は久しく無事でした。

こういうわけで、
その子孫が、今も東国にあります。

五十七年、秋九月、
坂手池を造りました。
そして竹をその堤の上に蒔(う)えました。

冬十月、
諸国に命令して、
田部の屯倉(みやけ)を興しました。

五十八年春二月十一日、
近江国に行幸し、
志賀に居ること三年。

これを
高穴穂宮(たかあなほのみや)のといいます。

六十年、冬十一月七日、
天皇は、高穴穂宮にて崩御しました。
ときに年百六歳。



・巡狩(じゅんしゅ)
天子が諸侯の治める国を視察すること

・上総(かずさ)
千葉県

・淡水門(あわのみなと)
館山か

・覚賀鳥(かくか)
みさご

・白蛤(うむき)
はまぐり

・穴昨邑(あなくいのむら)
奈良県古市

・尸(かばね)
死体

・上野
現・群馬県

叩頭(こうとう)
頭を地面につけお辞儀すること。

・頓首(とんしゅ)
頭を地につくようにさげてうやうやしく礼をする

・坂手池
奈良県田原本町坂手



感想

52年、夏5月4日、
皇后播磨太郎姫が崩御しました。

秋7月7日、
八坂八媛命を皇后に立てました。

53年、秋8月1日、
天皇は群卿に詔して、
「朕が愛し子を顧みることは、
いつになったら止まるのだろうか。

願わくは、
小碓王の平定した国を視察したいと思う」
といいました。

この月、天皇は、伊勢に行幸し、
転じて東海に入りました。

冬10月、
上総国に到着し、
海路から淡水門に渡りました。

この時、
みさごの声が聞こえました。

その鳥の姿が見たいと思い、

探して海の中に出ました。
それで白蛤を採ることができました。

そこで、
膳臣の遠祖、名は磐鹿大雁が、
蒲を以てたすきして、

白蛤をなますにして進めました。

そこで、
六雁臣の功を誉めて、
膳大伴部を授けました。

12月、
東国から還って、伊勢に居ました。
これを綺宮といいます。

54年、秋9月19日、
伊勢から倭に還り、
纒向宮に居ました。

55年、春2月5日、
彦狭嶋王が、
東山道十五国の都督に任命されました。
これは豊城入彦命の孫です。

ところが、
春日の穴昨邑に到着して、
病に臥して薨去しました。

この時、東国の百姓は、
その王が来られなかったことを悲しみ、
ひそかに王の遺体を盗み、
上野国に葬りました。

56年、秋8月、
御諸別王に詔して、
「汝の父、彦狭嶋王は、
任命した所に向かうことができずに
早く亡くなった。

であるから、
汝が、専ら東国を治めよ」
といいました。

こういうわけで、
御諸別王は、天皇の命を承け、
父業を成就したいと思いました。

そこで、
そこに行き統治して、
早く善政をしくことができました。

その時、
蝦夷が騒動しました。
すぐに兵を挙げて撃ちました。

蝦夷の首領、
足振辺、大羽振辺、遠津闇男辺等が、

床に頭を叩きつけて(謝罪をしに)来て、
頭を地につくようにさげて、
うやうやしく礼をし、
罪を受け入れ、
すべての土地を献上しました。

これをもって、
降伏する者はゆるし、
服属しないのは誅殺しました。

そういう訳で、
東国は久しく平安でした。

こういうわけで、
その子孫(上毛野君、下毛野君)が、
今も東国にいます。

57年、秋9月、
坂手池を造りました。
そして竹をその堤の上に植えました。

冬10月、
諸国に命令して、
田部の屯倉を興しました。

58年春2月12日、
近江国に行幸し、志賀に居ること三年。
これを高穴穂宮のといいます。

60年、冬11月7日、
天皇は、高穴穂宮にて崩御しました。
ときに年百六歳。


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