薔薇色ファンタジー★ヴェルヴェットの小部屋

色褪せぬ美しきもの・映画・音楽・文学・絵画等。ヴェルヴェット・ムーンのサブchouchouの偏愛日記です。忙中有閑♪

『悲しみと歌』 エドモンド・ブレア・レイトン:EDMUND BLAIR LEIGHTON

2013-05-29 | 文学・詩・絵画
 なんとなく今日の気分の一枚は大好きなラファエル前派の絵画で、19世紀末から20世紀初頭を生きた英国の画家、エドモンド・ブレア・レイトンの『悲しみと歌』(原題は『SORROW AND SONG』)。20世紀に入った晩年の作品のようですが製作年不詳です。

 「歌」とはただ楽譜があり発声されるものだけでもないと思っています。一つの詩、一枚の絵から聞こえる「歌」があるのだと。

 ついつい、長年好きな絵画群はラファエル前派や広い意味での象徴主義絵画が好きな傾向は変わらないようです。それにしても、日本語って素晴らしいです!でも外国語に訳されるととんだ羽目に陥ることもありますね。この作品の原題の『SORROW AND SONG』の「sorrow」にも色々な意味合いがあるでしょう。日本語だと「悲しみ」となっていますが、「哀しみ」、「愛しみ」とも漢字とひらがなで表現できるのですね。そんな事をこの甘美な絵を眺めながら想いました☆

三好達治 / 郷愁 「三好達治詩集」 より

2013-04-14 | 文学・詩・絵画

海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして、母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。

三好達治 「郷愁」

★そろそろ更新しないとデザインが自動的に初期化されてしまうとのお知らせを受けました。候補記事ばかりが積もるのですが、私の「今日の一句♪」は三好達治氏の詩を。音楽は詩であり、詩もまた音楽である、と常に思って聴いたり読んだりしています。人それぞれの感性や嗜好により様々に響く詩(歌)たち。私の好きな音楽傾向は結構広いようで狭いのかも。けれど、好きな文学はかなり偏っています。そして、好きな映画はとても幅広い。何となく自分でこのような傾向を感じることが出来るのは一重に歳月の賜物。どうでも良い薀蓄も頭の片隅に積もってもゆくのですが、それもまた愉しいです。

この三好達治氏の詩は愛しき母国語である日本語と、大好きな異国の言葉であるフランス語の親和性を素朴に歌っています。「海」という漢字の中に「母」があり、「母:mere」というフランス語の中に「海:mer」がある。フランス語入門時に「おお!」と感激した頃が懐かしいです。最近はすっかり勉学を怠っているので、そろそろ三度再開したいなあ...とも。

そうそう、此処は私のお仕事の合間の一服日記になったのでした。そもそも三好達治という詩人を知るに至る所以は、ボードレールの『巴里の憂鬱』の翻訳家としてでした。私の大いなる偏愛文学の多くは岩波文庫(ジュニア含む)等の岩波書店発行もの。高校生頃からドイツ文学、さらにフランスの文学に傾倒してゆき今ものんびり続行中。思えば、フランス文学に限ると何故か新潮文庫、新潮社発行ものが多い様です。そんな個人的な長きに渡るほのかな愛着が岩波と新潮にあります。ちなみに、新書に於いては岩波、中公、講談社の様です。また白水Uブックスは格別な存在でありました。新書好きというので乙女度低し...との説はさもありなん♪

●「巴里の憂鬱」 ボードレール/著 三好達治/訳
「酔え、絶えず汝を酔わしめてあれ!」浪費、麻薬、梅毒……過激すぎる人生から紡ぎだされた『悪の華』に並ぶ傑作散文詩集。 父母兄弟よりも、祖国よりも、お金よりも、雲を愛すると宣言して、詩人の立場を鮮明に打ち出した『異人さん』。耐えがたいこの世からの脱出を叫ぶ『どこへでも此世の外へ』。ほかに、パリの群衆の中での孤独を半ば自伝的にしるした散文詩全50篇を収録。『悪の華』と双璧をなし、後世の文学に絶大な影響を与えたボードレール晩年の成果を、わが国の天才詩人三好達治の名訳で贈る。 発行:新潮文庫




☆Merry Christmas !☆

2012-12-24 | 文学・詩・絵画
本日より(三年以上ぶりに)復活いたしました『薔薇色ファンタジー』です。
お仕事である当店ヴェルヴェット・ムーンの在庫管理人のchouchou雑記でしょうか♪
大好きなシャンソンや映画、御本の中のお写真や挿絵などと共に気ままに更新してゆこうと思います。

今日はクリスマス・イヴですね。
皆様、ご家族やご友人たちと楽しいクリスマスを過ごされていることでしょう!

子供の頃からどうしたものか、欧州の絵本や童話などに親しんで成長したので、あまり米国のアートに馴染みがありません。
そんな私ですが、アメリカが誇る文化にチャールズ・M. シュルツあり!大好きなチャーリー・ブラウンとスヌーピーたちは今も心の住人たちなのです。


『チャーリー・ブラウン』 詩:谷川俊太郎

いつきみはひげが生えるの
丸い頭の子
ぼくらがみんな
ゲート・ボールしかしなくなっても
きみは相変わらず野球に夢中

ジャンパーのポケットに手をつっこんで
不死なる敗北を嘆きつつ歩むきみの姿に
スーパーマンは顔を赤らめ
ハムレットは顔をそむける



★すっかり白い冬のクリスマス・イヴで今日は祝日。私のこれまでの人生の半分は日曜日や祝日とは無縁の生活を続けていると気づく。それでも、やはり日曜日や祝日って好き!子供の頃からずっと。小学生の頃から大好きなスヌーピーとチャーリー・ブラウン、そしてその仲間たちも。みんな愛すべき存在なのだけれど、殊にチャーリー・ブラウンが大好き。女の子はマーシーが好き。思えば、子供の頃からヨーロッパの異国文化に幼い無知な心ながらある憧憬を抱いて来た。今も継続されているけれど、初めて私がアメリカの文化で親しみを持てたのはチャールズ・M・シュルツのコミックの中の少年少女たちとスーパー犬のスヌーピーだった。伊丹から池田行きのバスで1時間弱。すると「スヌーピーの店」があった。お友達と日曜日に幾度か行ったものだ。母にお小遣いを貰ってなので、お店の上の方に陳列されているものは高価で買えない。なので、小銭で買える文房具やハンカチなどを買って帰る。それで充分嬉しかった。中学になっても下敷きなどはまだ使っていた。そして、すっかり年月を経た今も私はチャールズ・M・シュルツのコミックを読み続け、「スヌーピーと仲間たち」から多くのことを学び続けてもいるのです。コミックではあるけれどアメリカ文学でもあると思っています。

上の谷川俊太郎さんの詩も大好き!多くの翻訳をされているので、どの本で読んだのか覚えていないのだけれど、古びたノートに書き残されていた。こんな事が長年続いているので、こうしてブログに書き写す作業をしているようでもある。

愛しき甥たちもまた幼い頃からケーブルTVなどのお陰で『スヌーピー』のお話に詳しくて、共通の話題が持てることを幸せに思っています。上の甥はとても感性的なものが似ているような大の親友なので、一等好きなのはチャーリー・ブラウン。下の甥はライナスらしい。気が弱いけれど心優しき少年チャーリーもまた、私には永遠の少年のお一人なのだろう。

ルネッサンス画家ジョルジョーネ『田園の合奏』 ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティのソネット

2009-09-01 | 文学・詩・絵画
ジョルジョーネ(Giorgione)。本名はジョルジョ・ダ・カステルフランコ(Giorgio da Castelfranc)、1477年~1510年という夭折の画家。ルネッサンス期ヴェネツィア派(ジョルジョーネ派とも)に属するお方で作品は多く残されていないけれど、時を経てイギリス・ロマン派の文学の中で脈々と継承され続けることになる。その貢献を讃えるには、19世紀英国画家であり詩人でもあった、ラファエル前派のダンテ・ガブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)が浮かぶ。15世紀から19世紀という年月、そして、それらを見たり読んだりする21世紀に生きる私。嗚呼!このような遥かなるロマンがたまらなく好きである。ジョルジョーネの1510年頃(死の直前)の作である『田園の合奏』あるいは『田舎の合奏』と呼ばれるルネサンス画に、ロセッティが寄せた美しい悲哀のソネットを♪

水を与えよ、夏至の苦しみを癒すべく。いな、
水瓶をゆっくり浸せ、いな、身を凭せかけて
聴け、水瓶のふちで嫌がる水が嘆息を洩らすのを。
静かに!深い森の彼方はるかに、
暑さは白みはじめる暁の空に音もなく横たわる。
手は今むせび泣くバイオルの弦を掻き鳴らし、
浅黒い二人の顔は歓楽の極みの悲しさに
歌を止める。細い笛を口から放し、
口を突き出したまま、彼女の眼はいま
何処へかさまよう?蔭の草は
彼女の裸の脇腹に涼しく触れる。そのままに。
今は何も言うな。彼女に涙を流させぬため、
またこのことをいつまでも口にするな。そのままにしておけ、
生命が不滅なものと唇を触れ合っているままに。


『若きウェルテルの悩み』 ゲーテ

2009-02-24 | 文学・詩・絵画
世にも美しく、心優しい娘ロッテに出会った青年ウェルテルは激しい恋のとりことなる。だが、彼女には立派な婚約者が・・・。募る想いと他人の幸せや社会的秩序を尊ぶ理性との葛藤。ウェルテルは恋しい人の名を呼びながら自らの生命を絶った。

これは簡単なあらすじ。私はこの『若きウェルテルの悩み』を10代の頃読んだ。小学生の頃から読むものというと少女マンガか童話や偉人伝。偶に百科事典の写真や動物図鑑のライオンばかり眺めていた。中学生になり読書感想文の宿題があり夏目漱石を読む。適当に感想文を書いて提出。まだ少女マンガばかり読んでいた。夏休みの読書感想文で何でも良いから一冊と言われ、海外文学で薄くて直ぐに読めそうなものを...とカフカの『変身』を本屋さんで文庫を購入。ここからが始まり...かなりの衝撃だった!起きたら私も何かに変身していたらどうしよう!!と翌朝鏡を見たものだ。カフカの出会いからようやく”文学”というものの面白さに目覚めた。そして、お小遣いで買えそうな安価なものを購入して読むうちに音楽熱も沸騰。映画はずっと好きだった。

本屋さんはカフカの影響から「ドイツ文学」というコーナーに先ず立ち寄ることになっていた。そこでこのゲーテの『若きウェルテルの悩み』を知る。マンガやアニメ、映画を見て泣くことはそれまでもあったけれど、海外文学を読んで泣いたのはこれが初めてだった。なので、今も私にはとても思い出深いもの。悲しいけれど美しい!と思えた。そんな美が今も好き。基本的に変わっていないみたい☆

若きウェルテルの悩み (岩波文庫)
ゲーテ
岩波書店

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『星の王子さま』 サン=テグジュペリ

2009-02-10 | 文学・詩・絵画
サン=テグジュペリ(1900‐44)生誕100年記念。世界中で愛読されている不朽の名作を、アメリカで出された初版本にもとづいて改訂した新しいエディション。巻末には、ニューヨークのモーガン・ライブラリーに所蔵されているサン=テグジュペリの草稿やデッサンの中から選んだ素描(淡彩)6葉を付しました。『星の王子さま』の創作過程をたどることのできる貴重な資料です。小学5・6年以上。

〔原題 (フランス) Le Petit Prince〕サン=テグジュペリの童話。1943年刊。星に住む小さな王子を主人公に、詩的な文章で精神の純粋さと高貴さを謳(うた)いあげ、寓意に満ちた物語は、世界中の人々に愛読される。三省堂提供「大辞林 第二版」より

【関連】1943年に刊行されたフランスの作家アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの有名な童話『星の王子様』の原作を、スタンリー・ドーネン監督が1974年にミュージカル映画化されている。サン=テグジュペリの不朽の名作は今も子供も大人も読み続けているけれど、作者であるご本人は翌年に飛行中に消息を絶ってしまった(第二次世界大戦勃発の時期)。サン=テグジュペリご自身もパイロットであった。私が子供の頃、この童話を読んだ折よりも今の方がずっとこのお話の深さ、言葉の数々に心打たれるものである。なので、今も世界中で読み継がれているのだろうとも想う。

星の王子さま
アントワーヌ・ド サン=テグジュペリ,Antoine De Saint Exup´ery,池沢 夏樹
集英社

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『幼年時代を追想して不死を知る頌』 ウィリアム・ワーズワース

2008-10-22 | 文学・詩・絵画
われらの誕生はただ眠りと前世の忘却とに過ぎず。
われらとともに昇りし魂、生命の星は、
かつて何処に沈みて、
遥かより来れり。
過ぎ去りし昔を忘れしにはあらず、
また赤裸にて来りしにもあらず、
栄光の雲を曳きつつ、
われらの故郷なる神のもとより来りぬ。
われらの幼けなきとき、天国はわれらのめぐりにありき。

『ワーズワース詩集』より


★ワーズワースは英国のロマン派のお方で好きな詩篇も多い。西洋文化と日本で生きる私とは違うけれど、不思議な相性の良さを感じてしまう。時代もずっと昔のお方だけれど。子供という存在の無垢さ、純真さは天からの授かりものなのだ。極悪な社会の歪みは子供たちにも影響する。本来は尊き天使の遣いかもしれないのに。関係ないのですが、関西では開催されずにガクンとしていましたので、大好きな英国画家ジョン・エヴァレット・ミレイの少女と母の絵を。この愛らしい少女の眼差しは彼女にしか見えないものがあったのかとも妄想したり。鳥の巣があるようなのですが♪

対訳 ワーズワス詩集―イギリス詩人選〈3〉 (岩波文庫)
ワーズワス
岩波書店

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『王女の誕生日』著:オスカー・ワイルド (『柘榴(ざくろ)の家』より)

2008-08-16 | 文学・詩・絵画
私の一等大好きな作家であるオスカー・ワイルドの作品や生涯、戯曲の映画化など可能な限り関連したものは反応せずにはいられない。歳を重ねる中でいつの間にか一等...という存在になっているようだ。ちょっと、古い想い出ながら、私は子供の頃から涙腺の非常に脆い子供で、いくじなしとも言えるけれど、感動し易いとも言える。同じように笑うことも多く、”ないたカラスがもう笑うた”と父にからかわれたりしていた。大人になった今もそんな性格はあまり変わりはないようだ。最も幼い記憶(母に読んで聞かせてもらったもの以外で)。幼稚園の先生が紙芝居で『バンビ』のお話をみんなに聞かせてくださった。教室に何十人かやや後方に座って聞き入っているうちに涙が溢れてきて先生を困られせてしまったことがある。後でお優しく先生は頭を撫でてくださったけれど、どこか体調が悪くなったのかと心配されたようだった。遠いのに母まで呼ばれた始末...お父さん鹿が決闘するシーンの絵やその時の恐怖と尊厳さ、深い愛を想うだけで今も泣いてしまう。その次の記憶は小学2年生頃の国語の時間。オスカー・ワイルドの『幸福な王子』が教科書に載っていた。ほとんど、同じ頃、それは社会の時間か国語の時間かははっきりしないけれど、担任の先生が『八月がくるたびに』というご本を読んでくださった。それが最初に知った日本に原爆が投下された戦争の悲劇に関するご本だった。そして、母が小学生用の児童文学全集や偉人物語を買ってくれたものを好きな作品は幾度も、あまり好きでないのものはパラパラと読んでいた。そんな子供時代の私を想い出すことが再読で安易に出来て愉快でもある。

オスカー・ワイルドの作品はどれも好きだけれど、最初の出会いが児童文学だったこともあり、先ずはそんな中で極めて大好きな作品のことを。『幸福な王子』の他にもうひとつ『柘榴(ざくろ)の家』という童話集がある。その中のひとつに『王女の誕生日』(1889年3月、「パリ・イリュストレ」が初出)というベラスケスの絵の時代を借りてきたような物語。

スペインの王女(インファンタ)の12歳のお誕生日。豪奢な装飾に彩られた大きなお屋敷やそこに集まる人々の豪華絢爛な衣装や宝石などがまばゆいばかりである。そんな中に、初めてそのお屋敷にやって来て踊りを披露する侏儒(こびと)。曲がった脚でよたよた歩きながら、不格好な頭を振り入ってきた侏儒を子供たちも王女も大笑いした。侏儒はと言えば、子供たちが笑うと自分までも楽しくなり笑い、踊ったり、おどけたりしている。王女の心をすっかりとらえていた。髪に付けていた白い薔薇を半ば冗談気分で王女は侏儒に投げつけた。侏儒は王女さまから白い薔薇を頂き天にも舞う喜び。王女さまに好かれているのだと思い込んでいる。わがままな王女さまはもう一度侏儒の踊りを見たいと招待する。

その幾つもある広間をそろりと歩いてゆく侏儒。真っ暗な部屋に行き着き、不可思議な光景を目にする。ある小さな人影がじっとこちらを見ている。侏儒の心臓は震え叫び声を上げる。その化け物は侏儒の動きをしっかり模倣するではないか!なんだろう?といっときは考えた侏儒にもようやく真相がわかりかけると、狂おしいような絶望の叫びを上げすすり泣きながら床に倒れてしまった。不格好なせむしで、見るも忌まわしい奇怪なあいつは自分だった。ほかならぬこの自分があの化け物だったのだ。子供たちが嘲笑っていたのはこの自分だったのだ。愛してくれていると思っていた王女さまも、自分の醜さを嘲り、ねじれた手足を冷やかしていただけなのだ。そんな自分の姿を知る鏡などの存在しない森で小鳥たちと楽しく過ごしていた侏儒。そして、なぜ父親は、自分を殺してくれなかったのだろうか?と熱い涙が頬を伝い、白い薔薇の花をむしって空中に撒き散らし、床に腹ばい、うめきながら横たわってしまった。

そこへ王女さまが開いた扉から仲間と一緒に入ってきた。また踊ってくれるように頼むけれど、侏儒はすっかり動かなくなってしまった。不機嫌になった王女は”侏儒を起こして、あたしのために踊れとおっしゃってくださいな”と伯父ドン・ペドロに言う。しかし、動かない侏儒の心臓に侍従が手を当てると、肩をすくめ立ち上がり、王女にうやうやしく一礼して言った。”わがうるわしき王女さま、王女さまのおもしろい侏儒は、もう二度と、踊りはいたしませぬ。残念でございます。これくらい醜ければ、王さまをお笑わせることもできましたろうものを。」と侏儒の心臓が破れたことを告げた。すると、王女は顔をしかめ、あでやかな薔薇の花びらに似たくちびるを、美しい軽蔑でゆがめ、”これからさき、あたしのところへ遊びに来るものは、心臓のないものにしてね”と叫び、庭へ走り出て行った。


最後の王女の非情な台詞と心臓の破れてしまった侏儒。どちらも罪ではなく、咎めることは出来ない幼い子供たちの心。でも、純粋な侏儒の繊細で柔和な心とその壮絶で残酷な嘆きと叫びの中での死を想うといたたまれない。

寺山修司 『少女のための恋愛辞典 家のない子も恋をする』 写真:沢渡朔 『人形たちの夜』より

2008-05-23 | 文学・詩・絵画
『少女のための恋愛辞典』
家のない子も恋をする

キスと二つ並べて書いてみる。キスキスである。さかさに読むと、スキスキとなる。これもとてもいいな、と男の子は考える。漢字で書くと「好き」という字は女ヘンに子という字。つまり、女の子である。これも、とてもいいな、と男の子は考える。
男の子は、ことし十五歳である。

ラブと二つ並べて書くとラブラブ。さかさに読むと、ブラブラである。何だか知らないけれど、ちよっと恥ずかしい、と男の子は考える。

ブリジット・フォンテーヌが唄っている。

世界のひとが
みんなさむさにふるえている
だから
どこかで火事がある

ハートが燃えると恋なのに、家が燃えると火事なのです。
「家は、恋をすることができないのかな」
と男の子は考えこんでしまった。

(中略)

ダミアはシャンソンで、
「海で死んだ人は、みんな、かもめになってしまう」
と唄いましたが、かもめになれなかった溺死の少女は、いまも海の底に沈んでいます。
だから、ひとは誰でも青い海を見ていると、かなしくなってしまうのです。


寺山修司 『少女のための恋愛辞典 家のない子も恋をする』
写真:沢渡朔 『人形たちの夜』より


★これは寺山修司氏が子供の頃に、アンブロース・ビアスの『悪魔の辞典』を愛読されており、中に、《恋愛》=患者を結婚させるか、あるいはこの病気を招いた環境から引き離すことによってのみ、治すことのできる一時的精神異常。と記されていたこと、この本のもつ冷ややかな調子に反発し、おとなになったら、ぼくの辞典を作ろうと思ったそうです。でも、できやしないので、恋愛についてのノートに「少女のための恋愛辞典」とつけてみたそうです。因って、これは寺山修司によるアンブロース・ビアスへの回答でもあるというもの。

私もアンブロース・ビアスの『悪魔の辞典』を持っていた。真っ黒な妖しげな御本でちゃんと読まずに古本屋さんに売ってしまった。私よりさらに幼い弟が私の本棚を見ては不気味そうに、こっそり母に告げ口していたらしい。「お姉ちゃん、だんだんおかしくなってる。大丈夫かな...」って。母も多分にそういう意味ではおかしな人だったので、そんな弟の心配心をまた私にこっそり嬉しそうに話すのでした。”シャンソン”というフランスの歌謡を教えてくれたのも母でした。でも、この詩には”ブリジット・フォンテーヌ”という名が出てくる!私のこの趣味サイト『BRIGITTE』とはブリジット・フォンテーヌのお名前から拝借しているもの。なので、この詩はとっても大好き!寺山修司作品には数え切れない程の好きな詩や物語、映画がある私。なので、また追々にと想っています☆

内藤ルネ 『少女のままで』 写真:安東紀夫 『幻想西洋人形館』より

2008-04-29 | 文学・詩・絵画
『少女のままで』

許せない程たくさんの時間が過ぎ去っていた
薔薇色だった固い約束も
今 絶望の色に塗りかえられている
少女はいつまでも大人にならなかった
あの人が帰ってくるまでは
いつまでも少女のままでいようと心に決めていたから―

さめざめとした或る秋の夕暮れ
恋人はひっそりと帰って来た
若さも夢も彼の上から去っていた
少女と恋人は見つめあった
長いひととき やがて何も言わず恋人は部屋から出て行った
光のかげんなのだろうか ひどく年老いた少女は鏡台の小ひき出しから
瓶づめの錠剤を取りだして飲んだ
冷たく横たわった少女を
少女が愛していた人形がテーブルの上から
まばたきもせずに見つめている

詩:内藤ルネ 写真:安東紀夫  「幻想西洋人形館」より


★今日は祝日。”昭和の日”。いつの間にか祝日も増え、名称も変りあまり覚えられずにいるけれど、私はどうしても生まれて多感な時期を生きた”昭和”が好きでいる。今を生き愉しく心豊かに過ごしたいと想うと。あまりお人形のお話はこれまで此方には綴っていなかったかもしれない。幼い頃からお人形遊びの好きな私は中学生になっても帰宅後はまだお人形と遊んでいた。私の歳相応な読物や玩具を母はさり気なく差し出してくれていたように想う。中学に上がる前の春休みに”ビートルズ・ボックス”のレコードと私専用のレコードプレーヤーを買ってくれた。私が望んでいたのではないけれど、そこから今のお仕事に繋がる衝撃を受けた。母の愛溢れる企みのようにも想えおかしい。今から想うと言葉や物以上のものを沢山!両親から頂いて育ったと感謝している。もうこの世にいないけれど、心の中にいつも、いつまでもいてくれる。今はようやくそう思えるようになった。でも涙する...。私はお友達に誘われないといつでもお家で遊んでいる子供だった。子供の頃からぬいぐるみよりもお人形が好きだったので、一人で寝るようになってからは彼女たちと一緒に眠った。何をお話していたのだろう...。

母は少し警戒したのか、私のそれらのお人形を全て従姉妹の少女にあげてしまったときの悲しみを今も覚えている。多分そのことは何かしら尾を引いていたようにも想うし、人にも言えず色々考えたものだ。かなり深刻なことのように。そうして、社会人になってゆく中で再度お人形と一緒に居たい!と想うようになった。ベルエポック時代のアンチック・ジュモーやブリュたちは買えないけれど、私の心のお友達のような彼女たちが今は何人かいる。其々に名前があるのだけれど、不思議なもので最も愛着のある子はオール・ビスクではない。ある日、衝動買いした子。体調のバランスを崩しかけていた頃だった。何故かぶらりと入ったお店で彼女と出会った。目が合ったのだ。躊躇せず彼女を抱きしめるように買って持ち帰った。私が訳もなく涙が溢れて止まらないときに彼女はいつも一緒にいてくれた。お喋りしていたのだ。とても優しく私を慰めてくれた少女。ちょっとふとっちょで他に美人の子はいるけれど、最もよくお話をするのは彼女。私は毎年歳を重ねてゆくけれど、彼女たちは少女のまま。そのドイツの子は多分5、6歳のように幼い。この内藤ルネさんの詩はとても好きなひとつ。お人形がちょっと怖いらしい相方がプレゼントしてくれた小さな御本。お金持ちではないので高価なお人形は買えないけれど、彼女たちは私の愛するレコードや書物たちと同じお部屋で毎日静かに過ごしている。優しく微笑みを湛えて☆

(追記)
ようやくこうして怖気ずに想いを綴ることができるようになった。20代の頃はこのような気持ちを語る友人は僅かな人だけだった。そして、”病的である”ともその頃からもここ数年でも指摘されグスンとなることも。でも、もういい加減自分の気持ちを自分の言葉で語っても罪ではないだろうと想う。大好きな世界は奇妙で多少狂っているかもしれない。でも、ヒーローがデヴィッド・ボウイ様なのだから!捻じ曲がった歪んだ風変わりな世界が相変わらず好きでもあるし、メロドラマも大好き!こんな塩梅で生きている。高校を卒業する直前の仲の良かった友人の言葉が今も鮮明に蘇る。”好きな世界だけ見ていたら、いつか頭を打つよ。もっと広い世界を見ないと。”って。彼女は大人だったのだ、既に。その時、私は泣きながら帰宅した。それでももう随分の年月が経過しているけれど然程変ってはいないようにも想う。でも、私なりに少しは成長してもいる。嘗てのように”大人になりたくない!”とは想わないし、逆に歳を重ねる愉しさを考えたりしている。どなたがご覧くださっているのか分からないのですが、いつもありがとうございます!また、不気味に想われるお方もおられるかもしれませんが、軽く見過ごしてくださると幸いです。今後とも、どうぞよろしくお願い致します♪