薔薇色ファンタジー★ヴェルヴェットの小部屋

色褪せぬ美しきもの・映画・音楽・文学・絵画等。ヴェルヴェット・ムーンのサブchouchouの偏愛日記です。忙中有閑♪

『床下の小人たち』 メアリー・ノートン

2008-03-15 | 文学・詩・絵画
私はどうしてだか分からないけれど、妖精や妖精の国に憧れ続けている。憧れという言葉とも違うかな...存在を信じているし出会ったことは無いけれど好きなのだ。妖精が登場するお話や映画に出会うと嬉しい。メアリー・ノートン(Mary Norton)は英国の児童文学作家であり、この『床下の小人たち』は代表作であり、続編もある(全部で5作品だと想う)。このお話は人間(床上の住人)から物を借りて生きている小人の一家の物語。児童文学を侮ってはいけない。大人になった私は子供の頃から絵本や漫画が好きで、読書という意識の無い頃からそれらの挿絵やお話に魅入り空想したりしていたものだ。成長と共に色々な興味から児童文学から離れていた時期があるけれど、ここ数年で一気に回帰しているように感じている。この作品は1952年に刊行されたもの。お話の中にどこかご自分を投影しているかのようにも想える。子供時代のメアリーはたいそう視力が弱く、生垣の植物や昆虫を間近で眺めては、その中で一緒に暮らす小人を想像していたそうだ。寄宿学校に入り眼鏡を与えられるけれど、その時期(1930年代)は大恐慌。不況で苦しむ人々が嘗て想像していた小人たちを呼び覚ますことになったとも。

ポッド、ホミリーの両親と少女アリエッティの一家。少女アリエッティは、父親のポッドの語ることに苛立ちを覚えながらも外の世界に興味を抱きながら成長していた。人間に見られた場合の危険を警告されたりもするけれど、お屋敷に泊まりにきた少年とお友達になりたくて、その友情が無害だと信じるアリエッティ。しかし、そのせいで人間たちに発見され、今までの生活は崩壊し命からがら逃げ出し、野原での新たな生活を始めなければならなくなる。ポッドの言葉とアリエッティの気持ちの間で色々なことを考えさせられる。

人間たちは、小人たちが死にそうになっても、見てるだけ。物見高そうに、押し合いへし合いして、見てるだけだ。わしが、死にかけているホミリーのひたいをさすっていようが、ホミリーが、死にかけているわしのひたいをさすっていようがな。

「みんなが互いのために、互いがみんなのために助けあう習わしをもつ借り暮らし」には信じられないことだが、人間は「互いに襲いあう・・・・・。ひとりずつのこともあれば、ときには、集団同士で襲うこともあるそうだ」


このように語る(4作目より)ポッドの人間不信は深まり共存してゆくことが難しくなってしまったことを示唆してる。人間の少年と仲良くしたいと想う少女の気持ちも、この父親の気持ちも、作者のメアリー・ノートンの想いなのだろう。小人は人間ではなく妖精でもあり、住み難いでしょうがどこかでひっそり暮らしているのだろう。時々、物が無くなったりすると、私は”妖精の仕業”と想うことにしている♪

★このお話は児童文学の名作の一つでもあり、英国文学とも言える。純文学から少女小説や少女漫画、絵本...この辺りの括りは難しく重なり合っていたり、繋がりあっていたりする。

床下の小人たち (岩波少年文庫)
メアリー ノートン
岩波書店

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『中原淳一の世界』 画:「過ぎた日の日記」(昭和26年)より

2008-03-06 | 文学・詩・絵画

        もしこの世の中に、風にゆれる「花」がなかったら、
       人の心はもっと、荒んでいたかもしれない。
        もしこの世の中に「色」がなかったら、人々の人生
       観まで変わっていたかもしれない。
        もしこの世の中に「信じる」ことがなかったら、一
       日として安心してはいられない。
        もしこの世の中に「思いやり」がなかったら、淋し
       くて、とても生きてはいられない。
        もしこの世の中に「小鳥」が歌わなかったら、人は
       微笑むことを知らなかったかもしれない。
        もしこの世の中に「音楽」がなかったら、このけわ
       しい現実から逃れられる時間がなかっただろう。
        もしこの世の中に「詩」がなかったら、人は美しい
       言葉も知らないままで死んでゆく。
        もしこの世の中に「愛する心」がなかったら、人間
       はだれもが孤独です。

            中原淳一 「中原淳一の世界」より