泥から咲いた蓮の花

現在、リハビリ中なブログです。長い目で見守ってくだせ~

プールな話

2004-11-23 21:29:47 | どろな話
本日、勤労感謝の日で休日。昨日、娘(8歳)と温泉プールにいく約束をしたので、さっそくでかけた。家から車で20分ほど走った山の中に温泉がわき出て、プールもある。3時間はいって大人500円。朝から娘は楽しみにしていたのでレッツゴー。ちなみに息子は「いかない」と一言。

別々に更衣室にはいりプールに入ったのはいいが、娘がこない。もしかしたら、着替えに手間取っているのかもしれないと思ったが、どうすることもできないので、しばらくジャグジーにつかりながら待つ。30分以上待っても来ない。なにかあったのかと心配になり、着替えて更衣室の外に出たら、いすに座ってじっとうつむいていた。

娘は私より早く着替えてプールに行ったが、私の姿がみえず、しかも見知らぬ子供たちが声高々にプールに遊んでいるのをみて、怖くなって引き返して、更衣室の外でどうすることもできずに待っていた。「もう一度、プールにはいるかい?」と聞くと、涙をぽろぽろこぼして首を横にふった。そう、娘は極端な人見知りなのだ。特に見知らぬ同年代の子供を怖がる。

結局、帰ることにした。帰りの車で、眠り込んでしまった娘。よほど心的エネルギーを使った出来事だったのだろう。娘の将来に一抹の不安がないわけでもない。しかし、人生を歩くのは娘。私が歩けるわけでもない。帰ってから二人でスーパーに買い物に行き、アイスを食べながら、再チャレンジすることを話し合った。思い起こしてみれば、私も少なからず、そんな傾向にあったかな。

娘について、私の脳裏に一つの風景がある。昨年の秋。娘が夏休みに育てていた朝顔。花の時期が終わり、そこから種をとっている娘の姿。仕事部屋の窓から眺めていた娘の姿が、今でも焼き付いている。なぜ、そのシーンが焼き付いているのかは、おいおい語るとして、娘のところには、ごくたまに近所の友達が遊びにくるが、自分から友達の家にいくことはしない。いつも一人で遊んでいる。学校の勉強も、養護学級になるかならないかの境目で、娘なりにいろんな寂しさを味わっていると思う。

私ができることはなんだろう。事情があり、離れて暮らしていたときも「おとーちんは?」「おとーちん、ちゃんとご飯食べているかな」と私を案じていたという。私にできることはなんだろう。改めて自分を問う毎日だ。

キャシャーン

2004-11-23 21:04:37 | どろな話
これは実写だけどアニメだ。私はこういうの好きです。でも、寺尾聡と樋口可南子が出ているのはなぜ? 「阿弥陀堂だより」「半落ち」そして「キャシャーン」ですかい…この作品は映像の面白ささることながら、生の重圧がテーマですよ。そして平和かな。生の重圧を感じている人、平和を希う人はみましょう。一度死んだ主人公が父親の研究によって生き返る時に「オレはもう、そっちに行きたくないんだぁぁ」と叫ぶところなんて、考えさせられた。愛がないと歩けない。踏み出す一歩一歩がうつろになる。愛されるより愛しましょう。それでいいじゃん。という結論。

ジョゼと虎と魚たち

2004-11-23 20:42:33 | どろな話
ジョゼと名乗る足の不自由な女性(池脇千鶴)と大学生・恒夫(妻夫木聡)の出会いを描く。原作は田辺聖子。人を愛しく思い、それを表すこと。一緒にいてほしいと願い、それを伝えること。愛し合うこと。そこには常に決断とそれなりの覚悟があると思う。そして離れることも。

自分の経験してきた出会いと別れを改めて思い起こしてみる。記憶にまつわる想いは時とともに変容していく。棘が抜かれて優しくなってしまった記憶。未だにアクの抜けない苦さが伴う記憶。さまざまあるけれど、出会いには戸惑い、希望、勇気。そして別れには寂しさ、喪失、悲しみ、怒り…いろんな想いとともに、思い悩み、決断し、行動し、結果を受け入れる自分がいたことに気づく。一つずつ、自分が目の前にある道を選択し、そこを歩いてきた。

老婆のおす乳母車に乗ったジョゼにひかれていく恒夫。歩けないジョゼにとって外の世界は、あけがたに乳母車の中から眺める街だけ。恒夫は、ジョゼが一緒に暮らしていた祖母を亡くして独りぼっちになったことを知り、彼女の家に走る。ジョゼと二人の生活がはじまる。

ジョゼがのるモノ。祖母のおす乳母車、恒夫の背中、そして電動三輪車に変わっていく。こういう変遷が意味するものを自分に置き換えてみると興味深い。そして、ジョゼと恒夫がそれぞれ一度ずつ泣くシーンがある。なぜ泣くかは観てもらって、それぞれ受け取ってみればいい。独りぼっちになったときの不安。想いを果たせなかった悔い。理由はなんでもいい。人は泣くのです。そして歩くのです。というわけで泣かせてもらったよ。