泥から咲いた蓮の花

現在、リハビリ中なブログです。長い目で見守ってくだせ~

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2004-11-24 09:28:36 | どろな話
娘とプールにいった記事にトラックバックをかけていただいた。単にそれだけならこうやって記事にはしない。アクセスカウントを増やすために、あらゆる場所にトラックバックかけているのだと思う。かけられても、記事内容に共通の理解やら認知やら、それらを志向する何かが見あたらないので、削除した。しかしながら、敬意を表して、この記事中にリンクをはってあげませう。とても泣けるサイトでした。

2004-11-24 00:46:41 | どろな話
病院の待合いで養老孟司の『死の壁』を読んだ話でふれたが、私に持病がある。痔の一種。何かあるとお尻の穴の横が化膿する。これがひどくなると痔瘻になるらしい。お尻の穴が二つできちゃうってわけだ。先日、小学校以来の友人が痔瘻の手術をした。私が何度か切開手術を受けていることを知っているので、彼は手術前に「痛いの?麻酔はきくの?どんな感じ?」としきりに質問してきた。私が今まで3度うけた手術はものの数分で終わるもの。化膿した部分にメスを突き立てて、膿を出すだけ。彼は結局一週間ほど入院し、予後が悪かったらしく、「再び修行してきます!」というメールを私にあてて再手術に臨んでいた。

今月の初旬、なにやらお尻の穴周辺に、ちくちくとわずかな痛みを感じた。「う!これはやばい。再発か!」と思いながらも、度重なった酒宴の席に顔を出していたら、かなり痛みを発するようになり、腫れも出てきた。今度、悪くなったら入院して根治手術に臨むと決めていたので、日程を調整し、お酒を断じて脂質を含む食事を停止した。ご飯とみそ汁。納豆と野菜のおひたし。海草類。そんな生活を一週間ほど続けていたら、みるみるうちに腫れがひき、痛みもなくなった。体の調子もいい。肩こりも消えた。自分の体に息づく自然治癒力を改めて実感する。ありがたいことだ。

体もこうやって気遣えば力を発揮する。きっと心もそうに違いない。傷ついた心も気遣えば必ず自然に治癒していくと思う。悩みをもった人の多くは「どうしたらいいかわからない」と言う。私はこう思う。どうしたらいいかは、実は本人はわかっている。踏み切れない、選択しきれないのだ。選択しそこに歩くことの足を引っ張るものこそ、癒されぬ傷が発する痛み。治癒力を発揮するには自分を気遣うことだ。それは自己中でもわがままでもない、治癒力があることを認めるように、自分を信じることだ。

さりとて自分をいくら信じたところで苦悩はある。そもそも苦悩がまったくない世界こそ幻想なのだ。ようは問題に支配されないことだと、軽く認定できるようになったのは、今年の5月にアメリカの依存症回復施設ベティ・フォード・センターの副所長を務めた、セラピスト、モネッサ・オーヴァヴィのワークショップに参加したことが機縁となった。初老の上品な彼女のまなざしは、揺るぎない自己信頼に裏付けられた慈悲にあふれていた。私は夢を捨てた。「夢を捨てる」などと言うと、あたかもニヒリズムまっしぐらな感じだが、非現実な思いこみは捨てた。私が今まで持ってきた目標設定や限界設定は明らかに非現実であった。これではどこまでいっても満足はしない。何しろ実現しないのだから。

何かにならなくてもいい。私はもうすでに私であった。いくら理想を思い描いてあがいても、その理想は「私」ではない。実現していない、私ではない「私」に愛着しても、何も生まれない。今の自分、今までの自分を受け入れるないで、なぜに生きることに、次に歩を進めることに必要な力が発揮できようか。そんなことを考えながら、自分が自分にうち立てていたのは尊大な幻想であったことを認め、非現実な夢を捨てた。「私ももう長くないですよ~」というお婆ちゃんに「一日一日を大切にしましょうよ」と声をかけていた私。自分にもその声をかけてあげよう。明日は来ていない。昨日は過ぎ去った。今を積み重ねよう。