泥から咲いた蓮の花

現在、リハビリ中なブログです。長い目で見守ってくだせ~

携帯電話

2004-11-30 14:30:14 | どろな話
使い始めてどれくらい経つだろう。最初は知人にすすめられて購入したPHSだった。当時は、携帯電話よりはるかに音質がよかったPHS。料金も安かった。現在、仕事と私用と2台使っているが、一時は5万円以上していた月々の通話料。今は2台あわせても1万円いかない。使用頻度が激減した。理由は電話コミュニケーションをほとんどとらなくなったということ。とらなくても平気になったということ。メールもほとんど使わない。

友人のAyakoさんが携帯の依存度を改めて考える事件に遭遇。携帯電話があることに依存して、待ち合わせなど、確実に決めないことが多い。待ち合わせ場所についたら連絡すればいいと思っているのは確か。私の20代は携帯電話はなかった。知人との待ち合わせは「何時何分。どこそこで」と時間と場所を確約したもの。今でも、そうすることはあるが、目的地に着くか着かないかで「着いたよ」とか「ごめん、五分遅れる」なんて連絡をしたり。携帯を持っていない時は、ひたすら「何時何分に○○にいる」ことを信じて、そう行動したものだ。ある意味、任務遂行力が必要だったが、今はなんとかなると思ってしまう。

なんとかなると思うことは楽だ。しかし、それは携帯電話の存在という裏付けがあってこそ。それが使えない事態になれば、まことに無力だということを思い知る。あくまで道具。壊れることもあるね。これって、人間関係も自分の心や身体に対しても、言えることではないか。壊れることもある。無力なこともある。過信はトラブルのもと。備えあれば憂いなし。備えることは、心の余裕から生まれるのかな。そんなことを考える。まあ、なければないでなんとかなるだろーと、携帯電話の電波感知が圏外になると妙に安心する私は思う。

ハウルの動く城

2004-11-30 11:45:41 | どろな話
友人も自分のblogで言っていたが、帽子屋さんを営むヒロインのソフィーの声が倍賞千恵子。第一声を聞いたときにガクッとうなだれそうな自分がいた。ジブリの作品は大好きなのですが、映画館まで足を運んだのは、「千と千尋の神隠し」とこの「ハウルの動く城」。ネタバレしますので、差し支えある人はこの先、読まないでよろし。

ハウルは脇役です。帽子屋ソフィーの物語です。ハウルは純粋でもあり、それゆえに屈折した部分もある子供のままに魔法を使う脇役です。そんなハウルもソフィーに出会って「もう充分逃げてきた」「守るものがみつかった」と言います。ハウルの先生、王室付き魔法使いのサリマンは「自分のためだけに魔法を使うようになってしまった」とハウルを批判します。その前でソフィーはハウルの自由を擁護します。愛しているからです。

守るものとは愛する者、愛してくれる者。愛するか愛されるかという天秤は、私は幻だと思う。愛されるから愛するし、愛するから愛される。どちらか片方はない。愛への希求と破壊の要求は紙一重。でもその距離はとっても大きく、どちらに傾くも困難な道。結論は魔法はいらない。奇跡を必要としなくてもいい。素直に愛せば、守りたいものは守れる。そういうことだと思う。

「千と千尋の神隠し」でラスト、銭婆が「魔法で作ったんじゃ何もならないからね」と言って千尋の髪結いを紡ぐ。これは自分を知ること、自分を信じること。ジブリ作品に一貫してあるのが、主人公が自分を信じて行動する覚悟だと思う。ソフィーはハウルを助けたいから動いた。それはきっかけ。自分を信じた結果だ。きっとソフィーは帽子屋をしかたなく営むのではなく、この物語を通過して、自分で選んで帽子屋を営んでいくだろう。

でも、一番の強者は、ハウルと一緒に動く城で暮らしているマルクルという子供です。小学校低学年だろうに…年端もいかない子供が、ぐちゃぐちゃな城の中でハウルの手下をしている。何かの事情があって親から離れているのだろうが、ソフィーがお膳立てして、ハウルが作った目玉焼きを「久しぶりのまともな食事」といってほおばる。この作品一番の脇役だ。