泥から咲いた蓮の花

現在、リハビリ中なブログです。長い目で見守ってくだせ~

It is not your fault.

2005-07-19 01:50:34 | どろな話
4日間お休み。仕事らしきことは何もしていない。町の神社のお祭りにでかけ、スーパーにでかけ、コンビニにでかけ、外食にでかけた。私の大の苦手は「何もしないこと」。いっつも「何かせねば」と心がせわしない。親愛なる恩師、水澤都加佐氏に「何かしなきゃいられないってのは病気です」とお墨付きをいただいているからな…この数年は努めて「な・に・も・し・な・い」練習を積み重ねている。なんとか4日間くらいは何もしないでいられるようになった。

もう一つ、苦手がある。以前にも書いた「部屋の掃除」。部屋と言っても「自分の部屋」。取りかかろうとすると、理由のわからない苦痛に襲われる。例えるならば、責め立てられる中を必死に「ぐぬぬぬ」と黙して耐えているといった感覚。今まで、そういった感覚に陥っても、さしておかしいとは思わず、そういう性格なのだと切って捨てていた。当然、めったに掃除しない部屋は足の踏み場がない。自分の部屋以外の掃除はむしろ好きなくらい、きれいになるのが気持ちいい。おかしい。ヘンだ。自分の心に耳をすませてみる。どうも「机」に何か関係があるらしいことがわかってきた。「自分の机」そういえば、会社勤めをしていたときもそうだった。デスクの上を片付けるのは、常に後回しであった。どうも「机」にまつわる思い通りにならない怒り、悲しみの体験をかつてしたらしい。

自分の中の小さな子供の声を聴いてみる。そう、初めての勉強机は、亡き父の机であった。常に異常なほど綺麗に整頓されていた机。父の死後、私の勉強机となった。その机を使うのはとても嫌だった。ずっと嫌だった。そして、何かでしかられたあとは「机の上を綺麗にしなさい」という言葉がくっついていた。机の上を片付けることは「罰」だった。いつしか、机の掃除は、私の罪悪感の象徴となっていたのだ。

今日は朝から「のんびり」と掃除をする。なぜ「のんびり」か。自分の部屋の掃除をしようとすると、背中から何か得たいのしれないモノが追い立てる。「早くしろ!」「そんなこともできないのか!」と。そう、いつもこの声に苛まれ、必死に耐えていたのだ。今日はその声に「また来てくれたね。気遣ってくれて、ありがとう。いつもすまんね。一つお願いがある。心配してくれるのは感謝しているから、暴れないでくれないかい?」と声をかけた。そして、小さな泣いている子に「あなたは何も間違っていない。何も悪くないよ」と声をかけた。気づくと肩が軽くなっていた。