泥から咲いた蓮の花

現在、リハビリ中なブログです。長い目で見守ってくだせ~

『坊ちゃん』夏目漱石

2005-07-28 22:31:05 | どろな話
夏目漱石が好きで、作品の大半は読んだのだが、なんと『坊ちゃん』を読んでなかった。漱石の中ではもっともポピュラーな作品だと思うし、『坊っちゃん』だけは知っている人も多かろうが、つい読みそびれて「今さら…」をずーっと重ねてきてしまった。

『坊っちゃん』は主人公の一人称で語られる。すべて主人公の目を通した出来事、そして主人公の内面の語りによって構成される。客観的視点はない。「坊っちゃん」という呼び名は、主人公の家に下女として働いていた「清」が主人公に使う呼称だ。

「親譲りの無鉄砲」「乱暴者」。だけども人情厚く「おれは何が嫌いだと云って人に隠れて自分だけ得をするほど嫌いな事はない」なんて江戸っ子が、四国の中学校に数学教師として赴任。校長をはじめ他の教師、生徒たちとの間で、坊っちゃんの直情型の怒りを滑稽風味な味付けで炸裂しまくるのが、とても愉快だ。登場人物たちへのあだ名の付け方が粋で、彼たちへの毎度ながらのこき下ろし評が笑える。どかーんと学校をやめて東京に帰ってくるまでを描く。情け深い頑固な正義漢の八つ当たりかんしゃく物語。

「一緒に読もう!」運動を持ちかけ、その通りに応じてくれた親愛なるAyako女が、読み進めている中で主人公の行動を「ているのでなんだか腑に落ちない。というか、心配になる。もうちょっと考えて動けよーなんて突っ込みながら読んでいた。それが坊ちゃんなのに」と書いている。そう、ハラハラするのだ。つい「そこまでするか…」「おいおい、それはないだろ」「そのへんでやめておこうよ」なんて声が心に響き、主人公の一挙手一投足に心を砕いてしまう。そんな主人公にも、ほっとする存在がある。東京に残してきた「清」。唯一自分を可愛がってくれた、認めてくれていた母親のような存在。ことあるごとに「清」を思い出すところが、とても人間くさい。

漱石がこの作品を書いた当時、文芸の世界は「近代小説理論」とやらの時流によって、大きくその姿を変えていった頃。漱石はその流れに逆らい、それ以前の江戸期の価値観への復古(近代化への反発)をしたと言われる。この作品を読んで、ハラハラしてしまいながらも、なんとなく爽やかな痛快を感じるのは、私たちもまた世間や時代になんとか乗り遅れまいとあがく一方、本音の自分が坊っちゃん風に言うならば「大嫌いだ」とかんしゃく起こしながら生きている部分があるからだ。これが時代を越えてもなお、人々に親しまれる理由だと思う。

そんな主人公だけど、作品の一人称の語りは極めて冷静かつ滑稽。長年読みつけている座右の書『吾輩は猫である』の猫の視点と語りにそっくりで、私にとってとても親しみやすい漱石がここにいる。と、つらつら書いてきたけれど、この作品はコメディーだね。だって、かなり笑えるもの。この勢いで自分の生き様も笑い飛ばせるならば、きっと幸せだろうな。

さようなら

2005-07-28 13:36:48 | どろな話
預かっていたオカメインコが別の場所に移ることになった。一ヶ月半ほどいただろうか。日中の大半は私の肩の上にいるか、周囲をうろうろして、離れることはなかった。別れ際にはぴぃぴぃ鳴いてすがってきた。車に乗せられ、走りだそうとするときも、懸命にこちら側に来ようとカゴに張り付いていた。

よくなついた。慣れぬ場所に連れてこられて頼りが欲しかったのだろう。それが私だった。別れはずいぶん寂しいものだ。自然に生きることはもうできないオカメインコ。人と一緒にしか生きることができない命。あいつには選択ができないのだ。それを思うと、さらに侘びしく感じた。

幸あれ。また、いつか会おう。