長崎県佐世保市で同級生を殺害した女子生徒が逮捕されました。
集中的にマスコミが報道しています。
加害者の生い立ちや、被害者の生活環境など一部始終です。
女子生徒は猫の解剖や給食に洗剤を投入したりしたそうです。
金属バットで父親を殴り大けがを負わせたそうです。
女子生徒は精神鑑定を受ける事になるでしょう。
精神鑑定の基準は分かりませんが、一般的には異常と判断されるのでしょうか。
しかし異常と判断されても生徒に悪と善の意識はないと思います。
「猫を解剖したり、医学書を読んだりしているうちに、人間で試してみたくなった」
正直な自分の疑問を解決する手段の一つだったと思います。
「そんなことはいけない」という選択肢は、彼女には存在しなかったと思います。
「常識」と「非常識」の性格は個人で異なるのが現実だと思います。
生徒の生い立ちや生活環境が犯罪に影響があったと考えるのが妥当かもしれません。
しかし、恵まれた環境でも凶暴な性格は育ち反映される事実もたくさんあると思います。
もって生まれた性格に善と悪は存在しません。
本能のままに行動するのが、生物の基本的行動です。
その行動に制限を設けて人間は住みやすい環境を整えます。
それが、教育や法律です。
「善い事」「悪い事」を強制的に意識の中に挿入して洗脳します。
しかし、洗脳の性質は世界中各国や宗教など多岐にわたり一貫性がありません。
「敵を殺す行為」は正しいと教えて洗脳する国や宗教の存在も確認されます。
むしろ「人を殺してはいけない」と教える教育の方が理論的に無理があると思います。
テレビでは「何とか殺人事件」とかの題名で殺人ドラマが氾濫しています。
時代劇では悪人は殺して一件落着です。
私たちの生活の中で人殺しは生活の一部になっているのではないでしょうか。
その中で「戦争の賛否」は誰もが永久に結論をだすのは不可能かもしれません。
戦争はあたりまえの認識が世界共通の最高認識ではないでしょうか。
私が3歳の頃、両親が離婚しました。
母の浮気が原因です。
船乗りの父は私を育てるのが困難で母に私を渡しました。
母の新しい男はとても酷い男でした。
母に暴力を振るい私にも暴力を振るいました。
天井高く持ち上げて、私を思い切り下にたたきつけました。
男の友達が集まると皆で私を殴ったり蹴ったりして楽しんでいました。
とても痛かったです。
動くなくなった私を見て一人が「おい!死んだんじゃないか」
すると男は「しんだらゴミの日にだしゃええんじゃ~」
いまでも忘れません。
大人に成ったら絶対こいつらを殺すと子供ながらに決意していました。
そいつは、西原友次といいます。
23歳の頃、私はそいつを殺そうと幼い記憶をたどり家を見つけました。
家を訪ねると見覚えのあるおばちゃんがでてきました。
おばちゃんは大人になった私を覚えていませんでした。
「友次さんいますか」
「友次は5年前肺炎で死んだんよ」
もう死んでいました。
とても残念でした。
私の手で殺したった。
たぶんあいつは地獄にいるでしょう。
私は法華経の行者です。
仏法では人を憎まず愛するが基本の教えです。
お釈迦様に頼んで死んだら地獄に行かせてもらいます。
無理ならば自力で地獄にいきます。
人に言えばかなり人格を批判されるでしょう。
しかし、そうしなければ永遠に西原の魂と共存することになってしまいます。
けじめをつける為に私は地獄に行きます。
そこで西原を見つけて必ず殺します。
幼い頃、池のほとりで子猫を見つけました。
私はその子猫を池に投げ込みました。
鳴きながら何度も這い上がってあがってくる子猫を何回も池に投げました。
最後には這い上がって来て動かなくなりました。
耳を引っ張っても反応がないので子供ながらに死んだと思いました。
その池は人があまり近寄らない場所でした。
私は毎日のように猫の死骸を見に行きました。
それが唯一の楽しみだったのでしょうね。
白骨して骨だけになるまで足を運びました。
当時の私は一般的には異常行動でしょうね。
しかし当時の私は楽しみが無く虐待の日々です。
生き物を殺す事で自分の欲求不満を自己処理していたんでしょうね。
私は当時の自分を責めていません。
ただ猫には今でも「ごめんなさい」の気持ちがいつも心の中にあります。
その猫のお蔭で地獄行の権利を収得しました。
西原を処分したら、私の体は猫に食べてもらいます。
これが猫への謝罪とご供養になれば幸せです。
これ以降、私は生有る物を尊重してむやみな殺傷は永遠に放棄します。
今回の事件を肯定する訳ではありません。
ただ言えることは人の心は見えません。
ゆえに人の性格は見た目では解かりません。
周りの人たちが暖かく見守り皆で子供を育てるそれが大切です。
それが自らが安全に生活できる近道ではないでしょうか。
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