昨年、職務域でFJMT氏という方とお知り合いにさせていただいた。
氏はスマートフォンを触りながら突然笑い出し、
突拍子が無い事を言い出す。私が先ず彼のその言動に驚いたのは
「国会議員は内閣府に属する。はははははっ~。」の一文節を発した時である。
全く関係の無い話を次々と繰り出す彼の言動は同じ職域の人から
《けったいな奴=変わり者》という評価をされているようであるが、
私は彼の行動の特異性と発する言葉のカテゴリーが広範囲に
及ぶ事に常に注目していて、できるだけ彼の傍にいているように心がけている。
なぜなら勉強になる私が知らない知識の話が多いからだ。
先日はいきなり、「男は冷蔵庫を開ける者とは違う!」と言い出した。
しかし、冷やしたお茶が飲みたい時や、アイスクリームを食べたい時に開けるのと
違うか?と言うと、次の返答があった。
氏「袋を取り出すときだけだ!。」
池「何の袋です?。」
氏「袋ではない、フクロウ!。」
池「・・・・・・・・・・!?」
氏「わし、フクロウ飼ってるねん!」
池「冷蔵庫の中にフクロウ居てるんですか?」
氏「違うねん!エサエサ!」
池「フクロウがエサなんですか?」
氏「違うネン!ねずみ!」
池「ねずみも冷蔵庫の中にいてますん?」
結局は、袋に入れた飼っているフクロウのエサの冷凍ねずみを取り出すときに
冷蔵庫を開けるというのが真意のようだ。
彼は頭の中で考えている事を全て相手に説明はしないが、相手に伝わっているという
自身の脳内理解が早いのと、自分が発した言葉に対する相手の理解度を考える余地、
即ち、相手の質問に返す言葉を発するまでのラグ時計の独特勝手な介錯と時間のみが
存在している。
個性の塊の氏である。侮れない。
私自身も、個性として知りたいという欲求の塊であった時期がある。
その時は、他人様へ熱中行動をしている事への理解など求めるわけでもなく、
ただひたすらに没頭していた時期がある。
農産の技術である。
毎年、種のタキイさんの研究農場に赴き、美味しく品種改良されている
作物を見学させていただいたりもしたのであるが、
その作柄よりも栽培技術の方に関心を向け、
不思議な事や不明な点が有るごとに研究農場でへ行ってはレクチャーを受け
写真を撮り貯めていた。

下記画像のなすなどはその典型で、見る人が見ればその整枝の仕方に特徴を
見出せるはずである。
この整枝の方法なら、手間も要らず資材も少なくて済むし、
風で揺れても果皮に傷が入りにくい。

実際に、水茄子がぶら下がっているのであるがご存知の通りこの茄子は
表皮が傷がつきやすい品種である。
でもこの整枝と枝のつり方なら作業の工程も省略ができて収穫も楽に行えると思う。

テニスボールより少し小さめの完熟トマトの品種である。
ぶどうのように房になる品種で甘味はすごくよかった記憶が有る。
この品種は、私ならこのまま房のままで出荷をしようと考えているので
できることなら栽培を試みてみたい品種でもある。

同じくトマトであるがこのようにミニトマトは結実するというのを知っている方は
少ないのではなかろうか?市場に流通しているものの殆どがカップに入っていて
その成り方の様子は全く知る事はできないと思う。
ベランダでプランターで作っている人や家庭菜園で栽培をしたことのある方でも
実の数の多さには驚くと思う。

私自身、自分が行っている行動に関して深く知ろうという欲求が
強く有り過ぎるかもしれない。
これは自身でも自分で自分の首を絞める結果に不幸にも陥る時が偶に有る。
昔、このブログでも初期の頃の記載があるのであるが、バイクに乗り山中の徘徊を
始めだした頃、現在広く認知され皆が言っている《鯖街道》が遠回りをしているのに
気付いたことが契機となって、京から若狭への道を調べ上げた事もその一つである。
実際に検証しなくてはすまない結論に落ち着いた時が有る。
結果として実走して検証を行った。
言われている《鯖街道》は敦賀街道の一部である事が判明できた。
上中町・三宅の交差点から敦賀へ向かう道である。
ここにマスコミの間違いを正そうともしなくて、そのまま商業ベースに取り組んでしまい
後に引けぬ事情も見え隠れをする。
現在、西の鯖街道と呼ばれている方が本来の鯖街道に論拠として近いという
結論を私は持っている。

最高学府である大学において、東京は知性の優秀者を集め官僚を育てる、
京都は疑問保持者を集めて科学者を育てているように感じる。
東京はノーベル賞受賞者は少ないが、京都はその数を数える事ができる。
即ち、何ぜ?からスタートする基礎科学の分野をしっかりやっているからであろうか?
私自身、少し疑問に思う事柄があり数回農学部の研究室を尋ねた事があるが
その生命科学分野の基礎知識は、全ての生き物の進化と成長の根本とも言える
教義であったことが鮮烈に頭脳が吸収しとても有意義であったことが記憶にある。
根本は、世代と環境であったが、
その内容は今西錦司先生の生態学の著書の中にも
見ることができる。

子供の頃から、「なんで~?」と聞く事が多かったように思う。
両親はそんな私を無視していたのかどうだったのであろうか?
懇切に説明を受けた記憶が無い。
どちらかというといちいち答えてられない様子の方が多く、
顔色を見なければいけない両親でもあったように記憶をしている。
人は知りたいという欲求が生まれる根源は不思議な事を感じる事から
始まると言えよう。
分からん事が知りたいわけだから絶対にそうである。
この不思議が感じなくなれば、たぶん私は生きていけない。
その不思議が解析できた時の達成感は、何よりも変えがたいものである。
遺伝子放出のエクスタシーを感じているのだ。
紅もゆる ボニージャックス
明治~大正にかけて近代化を急速に進めた我が国は科学の進歩を目覚しい勢いで
進展させた。
航空機の設計に関しては顕著であり、戦後の日本の高度成長期で中心となって
自動車開発に携わったのはそのときに戦闘機を開発していた若い技術者達である。
やはり新しい技術というものは、新しい発想人が携わる方が良いようである。
ホンダが伸びたのはそこらへんが起因しているようでも有る。
先日昨年の晩秋に、京都大学内を尋ねたが、相変わらず自由闊達な空気が
流れていたように思う。
このとき同行した女子は、私の学内での行動と人脈に驚いていたが・・・・・・。
私にとっては日常当たり前の行動でありその人脈は私の探究心を理解する人たちであり
その人たちは良き知識の源でもある。
氏はスマートフォンを触りながら突然笑い出し、
突拍子が無い事を言い出す。私が先ず彼のその言動に驚いたのは
「国会議員は内閣府に属する。はははははっ~。」の一文節を発した時である。
全く関係の無い話を次々と繰り出す彼の言動は同じ職域の人から
《けったいな奴=変わり者》という評価をされているようであるが、
私は彼の行動の特異性と発する言葉のカテゴリーが広範囲に
及ぶ事に常に注目していて、できるだけ彼の傍にいているように心がけている。
なぜなら勉強になる私が知らない知識の話が多いからだ。
先日はいきなり、「男は冷蔵庫を開ける者とは違う!」と言い出した。
しかし、冷やしたお茶が飲みたい時や、アイスクリームを食べたい時に開けるのと
違うか?と言うと、次の返答があった。
氏「袋を取り出すときだけだ!。」
池「何の袋です?。」
氏「袋ではない、フクロウ!。」
池「・・・・・・・・・・!?」
氏「わし、フクロウ飼ってるねん!」
池「冷蔵庫の中にフクロウ居てるんですか?」
氏「違うねん!エサエサ!」
池「フクロウがエサなんですか?」
氏「違うネン!ねずみ!」
池「ねずみも冷蔵庫の中にいてますん?」
結局は、袋に入れた飼っているフクロウのエサの冷凍ねずみを取り出すときに
冷蔵庫を開けるというのが真意のようだ。
彼は頭の中で考えている事を全て相手に説明はしないが、相手に伝わっているという
自身の脳内理解が早いのと、自分が発した言葉に対する相手の理解度を考える余地、
即ち、相手の質問に返す言葉を発するまでのラグ時計の独特勝手な介錯と時間のみが
存在している。
個性の塊の氏である。侮れない。
私自身も、個性として知りたいという欲求の塊であった時期がある。
その時は、他人様へ熱中行動をしている事への理解など求めるわけでもなく、
ただひたすらに没頭していた時期がある。
農産の技術である。
毎年、種のタキイさんの研究農場に赴き、美味しく品種改良されている
作物を見学させていただいたりもしたのであるが、
その作柄よりも栽培技術の方に関心を向け、
不思議な事や不明な点が有るごとに研究農場でへ行ってはレクチャーを受け
写真を撮り貯めていた。

下記画像のなすなどはその典型で、見る人が見ればその整枝の仕方に特徴を
見出せるはずである。
この整枝の方法なら、手間も要らず資材も少なくて済むし、
風で揺れても果皮に傷が入りにくい。

実際に、水茄子がぶら下がっているのであるがご存知の通りこの茄子は
表皮が傷がつきやすい品種である。
でもこの整枝と枝のつり方なら作業の工程も省略ができて収穫も楽に行えると思う。

テニスボールより少し小さめの完熟トマトの品種である。
ぶどうのように房になる品種で甘味はすごくよかった記憶が有る。
この品種は、私ならこのまま房のままで出荷をしようと考えているので
できることなら栽培を試みてみたい品種でもある。

同じくトマトであるがこのようにミニトマトは結実するというのを知っている方は
少ないのではなかろうか?市場に流通しているものの殆どがカップに入っていて
その成り方の様子は全く知る事はできないと思う。
ベランダでプランターで作っている人や家庭菜園で栽培をしたことのある方でも
実の数の多さには驚くと思う。

私自身、自分が行っている行動に関して深く知ろうという欲求が
強く有り過ぎるかもしれない。
これは自身でも自分で自分の首を絞める結果に不幸にも陥る時が偶に有る。
昔、このブログでも初期の頃の記載があるのであるが、バイクに乗り山中の徘徊を
始めだした頃、現在広く認知され皆が言っている《鯖街道》が遠回りをしているのに
気付いたことが契機となって、京から若狭への道を調べ上げた事もその一つである。
実際に検証しなくてはすまない結論に落ち着いた時が有る。
結果として実走して検証を行った。
言われている《鯖街道》は敦賀街道の一部である事が判明できた。
上中町・三宅の交差点から敦賀へ向かう道である。
ここにマスコミの間違いを正そうともしなくて、そのまま商業ベースに取り組んでしまい
後に引けぬ事情も見え隠れをする。
現在、西の鯖街道と呼ばれている方が本来の鯖街道に論拠として近いという
結論を私は持っている。

最高学府である大学において、東京は知性の優秀者を集め官僚を育てる、
京都は疑問保持者を集めて科学者を育てているように感じる。
東京はノーベル賞受賞者は少ないが、京都はその数を数える事ができる。
即ち、何ぜ?からスタートする基礎科学の分野をしっかりやっているからであろうか?
私自身、少し疑問に思う事柄があり数回農学部の研究室を尋ねた事があるが
その生命科学分野の基礎知識は、全ての生き物の進化と成長の根本とも言える
教義であったことが鮮烈に頭脳が吸収しとても有意義であったことが記憶にある。
根本は、世代と環境であったが、
その内容は今西錦司先生の生態学の著書の中にも
見ることができる。

子供の頃から、「なんで~?」と聞く事が多かったように思う。
両親はそんな私を無視していたのかどうだったのであろうか?
懇切に説明を受けた記憶が無い。
どちらかというといちいち答えてられない様子の方が多く、
顔色を見なければいけない両親でもあったように記憶をしている。
人は知りたいという欲求が生まれる根源は不思議な事を感じる事から
始まると言えよう。
分からん事が知りたいわけだから絶対にそうである。
この不思議が感じなくなれば、たぶん私は生きていけない。
その不思議が解析できた時の達成感は、何よりも変えがたいものである。
遺伝子放出のエクスタシーを感じているのだ。
紅もゆる ボニージャックス
明治~大正にかけて近代化を急速に進めた我が国は科学の進歩を目覚しい勢いで
進展させた。
航空機の設計に関しては顕著であり、戦後の日本の高度成長期で中心となって
自動車開発に携わったのはそのときに戦闘機を開発していた若い技術者達である。
やはり新しい技術というものは、新しい発想人が携わる方が良いようである。
ホンダが伸びたのはそこらへんが起因しているようでも有る。
先日昨年の晩秋に、京都大学内を尋ねたが、相変わらず自由闊達な空気が
流れていたように思う。
このとき同行した女子は、私の学内での行動と人脈に驚いていたが・・・・・・。
私にとっては日常当たり前の行動でありその人脈は私の探究心を理解する人たちであり
その人たちは良き知識の源でもある。