池やん!まいど!おおきに!ごきげんどぅ!

仕事・今までの人生
このごろ悩みが多くて困ります。
周りの多くの人に救われているのを
実感する今日この頃。

広島 ~ 呉 ~ 三原 その②

2011年12月31日 | 旅先の事
広島駅から45分ほどで呉駅に到着した。
改札を出てコンコースで呉の観光案内版を見ていると、
ヤマトミュージアム、海上自衛隊歴史記念館が目に付き向かう事にする。
造船の街らしく港には重量クレーンが目に付く。
旧帝国海軍の遺構もそこかしこの有るようであるが、今回は全て見送る。





で、・・・・・・・・。両方ともが休館
潜水艦の野外展示と、戦艦むつの主砲、いかり、スクリュー、
巨大な舵板の野外展示だけを見た。



呉駅に戻り三原方面へ向かう電車の乗るがすぐに乗り換える。
でその乗り換えた三原行きの電車でにぎやかな光景に遭遇する。
いっぱい荷物を持ったフィリピーナ二人と、おじいさん。
全くおじいさんはそのフィリピーなの言葉が分からない様子。
車掌から三人分の関空までの切符を買っているが、
おじいさんはなぜ特急料金が存在するのかを一人のフィリピーナから
質問されて、その説明をそのフィリピーナにしているが、
二人はスペイン語で絶えず会話をしていて、
そのおじいさんは一生懸命に説明しているが理解を示さない。
結局、イラッときておじいさんが放った言葉にフィリピーナは納得する。

「速いから高い!」と一声でその騒ぎは済む。

私は笑いをこらえる事ができなかった。

目線があったそのフィリピーナが英語で話しかけてくるので、
少し相手をしたが、歳いった方のフィリピーナはそのおじいさんの妻。
私と話している彼女はその妻の友人らしい。

お金はそのおじいさんが払っているらしい。
金持ちだ。



長閑な電車は単線を走り、数回の対向列車との行き違いを駅で停車し
少し時間がかかったが右手には造船所やドックを見て
海沿いをガタゴトと2両編製の身をくねらせて走る。
景色は瀬戸内特有で、海面に反射する小島の向こうの夕日がすばらしい。
私は海側ではなく山側に座ったのでそこからは反対側の車窓を通しての
景色であったが、これもなかなか郷愁を誘うものである。



瀬戸の花嫁 / 小柳ルミ子 -歌詞付き-

広島 ~ 呉 ~ 三原  その①

2011年12月31日 | 旅先の事
クリスマスを過ぎた日、私は鳥取へ行こうとしていた。
しかしその後の寒波で天候も悪いと聞き、広島へ向かう事にした。
私の知っている限りでは、神戸を過ぎると丸亀製麺のうどんを賞味する場所は
岡山県と広島県との境の町、笠岡市中まではその店の所在が分からないでいたところ、
知人が、姫路市内の姫路バイパスを飾磨方面に1キロほど行くと右手に有ると
教えてくれたので先ずはそこを目指すことにした。
神戸で年末の素人運転の車にイライラしながら阪神高速神戸線をひた走り
第二神明道路、加古川バイパス、姫路バイパス中地で出て飾磨方面へ・・・・・。
で、丸亀製麺中地店に到着。



今回は、釜揚げうどんの特盛、かしわ天丼である。
かしわ天丼は一切れが二つくっついていて、
二つ分のお勘定であろうかと思ったのであるが、
レジ打つおばさんが一個分でお勘定は良いとの事ですごくラッキー!!!
しかし、釜揚げの量がすさまじい。釜場にいるおにーちゃんに聞くと、並盛の2倍。
私自身食べきれるかどうか不安になりつつも、問題無く完食。

翌日、早々に仕事を済ませ広島市西区の小さな飛行場の近所から広電バスに乗り
とにかく広島駅に向かう事にしてそこで市中ウロウロ計画を練ることにした。
広電バスは、路面電車を右にして短いバス停の間隔を発停車し広島駅へと向かう。
バス車窓から、右に電車を見ていると・・・・・・・・・。
京都市電が走っている。
大阪市電が走っている。

その路面電車が本当にそうなのか?広島駅前の広島電鉄乗り場の係員に聞いてみると、
紙屋町交差点でその姿が見ることができるとの事。
じゃあ、行ってみようと歩き始めた。

どこと無く、古い佇まいもそこかしこに残っている。
昭和の作りであろうとは思うが、川を渡る橋も古さを感じるものが多い。



闇市の残りをも感じる商店街も存在しているようで、
下画像の商店のある町並みはどこか都市開発から取り残された空気がある。
この商店の周りは、今度は尋ねてみたいが《純喫茶 パール》を見つけた場所だ。



飲み屋街が連なる町並みを発見したのでその通りを歩く事にした。
午前中から営業しているはずもなくひっそりとしているが、
風俗店が多いのに驚いた。
電柱が傾いているのが驚きだったし、
空中にある電線の取り回し方や配線の様子も異様である。



夜の世界や風俗のオネーチャンの衣装店発見!
エロ過ぎる。
しかし不思議なもので、スーパーやデパートや街中で少しきわどい女性下着が
ディスプレーされている下着販売店の前に私は立ち止まり凝視する勇気は無いが、
このお店は不思議と覗き込むことができた。



紙屋町交差点に到着した。
早速、大阪市電の到着。
私が通っていた大阪市立うつぼ幼稚園の前の本町通を走っていたやつそのまんま。
野田阪神行きの市電であったように思う。
川口町や本田方面から通う友人はこれに乗っていたはずだ。



大阪市電の写真を取っていると、美人の気配を感じる。
私の前を通るのを遠慮してくれているご婦人がおいで、
妙齢ながら仕草のかわいい方で有りお礼を述べると、
私に対して色々とご質問をくださり、私も気をよくして
ついついしゃべりこんでしまう。
ほどなく、
対向方面から京都市電の登場!



目の前に広島駅行きの電車が到着。妙齢美人が乗るので私も後に続き引き付けられて乗る。
広島駅までの楽しい会話で短いデート気分。
なんとなく新しい出会いのときめきを感じたので
独身ですか?聞くと、ご主人がお有りとの事、ご主人は幸せ者である。
親切にその後も広島駅内の乗り場方面を教えてくれた。
感謝である。
しかし、出会いは本当に突然にやってきて素敵で、
この頃では独り身の気楽さからかさびしさゆえの感情か
少しの時間でも美人との会話にドキドキときめいてしまう私は純情青年そのものだ。
妙齢美人さん(太田ひろみ似)もし会う事があればな~~~~。

広島駅のホームで腹が減ったのでこれまたこの頃恒例になりつつある駅そばを食べる。
天ぷらそばとおむすび2個のセットメニュー。
さてどこに行こうか?
呉に行こう!決断し呉行きの電車を待ち乗ると・・・・・・。



今時扇風機が天井にある電車。
向かいの席に若い子供をつれたお母さんが座る。
その横に、イケメンの若いお父さん。
行儀の良い子を連れている。



呉へと向かう電車は民家の軒を掠めるようにして右に海を見て
カーブ続く鉄路を車輪をきしませながら走っていく。
呉を散策して、海沿いに三原経由して京都に帰ることをこの電車内で決めた。

方言で読む 日本国憲法 第9条 《広島弁》


先の大戦で鬼畜の所業としての人類最初の被害を被った街が広島である。
日本国内で全くの逃げ場を作らない空からの広範囲による攻撃は非人道的である事は
周知の通りである。
その原野から立ち上がり現在の街の姿になるまでに幾程の年月がかかったであろうか。
その労苦を偲ぶ時、私は先人の逞しさに感涙さえ流れようとする自分に感動している。
私の取引先の量販店は戦後、先代社長が広島に復員して帰ってきて
何も無いところから裸一貫バラックで駅前の衣料品店からスタートした企業である。
《継続は力》
この企業、今や一部上場している。
日本人独特のサクセスロードをこの頃の企業人は忘れているように感じるのである。

江戸へ下る

2011年12月23日 | 旅先の事
江戸へ夕方から下る事になった。
東海道をひた走る計画である。
本来ならばいつも関東方面へ出向く時には中仙道が走りやすいので
中仙道を利用するのであるが、この時期は雪の障害を考えて
春の訪問が木曽路に訪れる間では東海道だなぁ~と考えて東へ向かう事にした。
岐阜県垂井宿も丸亀製麺の釜玉うどんとかしわ天丼とはとはしばしの期間の
お別れである。
しかし、滋賀県内の主要道の通勤時間帯の渋滞は慢性的で
一昔前の田舎道の様相は全く無い。
この日は夕方で栗東市の渋滞を過ぎるとすんなりと流れて水口で予定の
給油を済ませてこれから長い道のりの約500kmの始まりとなる。
「ヨウ候~~~~!一丁行きまっせ~!!!」と
気を引き締めてスタートしたとたんに早くもその気が緩む。
気力の持続距離わずかに約500m
《丸亀製麺》発見!迷わず入店。
この頃では、いつもの釜玉うどんよりも釜揚げに少し注文の頻度が増えている。
それも大盛りで汁(つゆ)が二つ、たっぷりの生姜とねぎ、わさびとねぎの2種類。



体を温めて、鈴鹿を越えた後は浜名湖近くまで走りきって休憩をしようと
走っているのであるが少し名古屋近辺で睡魔が現れては消えていく。
とにかく走れるところまで走りきろうと浜名湖近辺の休憩をスルーして
いやはや、良く走ってきたモンで由比まで来てしまった。
かなり速いペースだ。ここで30分ほど休憩。
右は東海道線、相当なスピードで貨物列車が行き過ぎる。
左は東名高速道路の向こうは駿河湾。
真正面には昼間なら美しい富士山である。

沼津を過ぎ箱根峠にかかる頃の時刻は午前2時前。
ここを越えれば江戸の灯りも近い。
箱根新道が以前と違い無料になっていた。
急坂を下ると小田原。
西湘バイパスを利用せずにひたすら国道一号線を東に走る。
茅ヶ崎、江ノ島を右に見て道は少し北北東に向きを変える。
保土ヶ谷でギブアップ。睡魔との闘いの限界これ以上の運転は危ない。
1時間の仮眠。不思議なモンですっきり。
これができないと重大事故につながる。

横浜で国道15号(第一京浜)に。
もう着いたも同然。午前6時きっちりに目的地に到着した。



大井競馬場より海側の運河は朝早くから行きかう小船の風情が大変に長閑だ。
朝の気ぜわしい時間なのにここだけは少し時間の流れが緩やかなように感じる。

東京モノレールの大井競馬場駅から大井競馬場の裏方が見ることができる。
馬がいて人が居る。当然であるが疲れた脳内にはそれが楽しくも感じてしまう。



移動で大井競馬場駅から東京モノレールを浜松町まで利用し、
山手線に乗り換えて東京駅へ出た。八重洲口で少しの時間待ち。
駅地下のマクドナルドで軽い浅食をとる
そこに集う八重洲口の時間待ち女性は皆上品で美しい。
でも、隣の席はハズレ。アウト。
向かいの席の妙齢清楚美人の眠たそうな眼と半開きの赤い輝く唇に吸い込まれる
マックフライポテトが艶っぽくて見とれてしまう。
《東男に京女》という言葉があるが、そんな彼女と私とが、
《東女に京男》を少し夢見てにやけてしまう。
まったくのバカな自分に相変わらずだなと確認印を押した。



仕事を済ませ、帰りは中央道で帰ることにした。
山へと続く高速道路は本当にユーミンの歌うがごとく空への滑走路である。
登り坂が多い。



予想に反して雪が無い。快適。景色は澄んだ冬の空気の中で雄雄しき山々が
何かを見る者に語りかけているようにさえも感じてしまう。
それは挑発的同姓的文言で表すのが適当であろう。
即ち、「なんか文句あるんか~?」的文言だ。

矢沢永吉 東京


やしきたかじんの《東京》とブログ掲載をどちらにするかを
悩んだのであるが、自身の気持ちとカッコよさでエーちゃんにした。
江戸へ向かう途中、頻繁にメールをくれた女子への、
私の素直になれない気持ちの表現でもある。

しかし、本当にかっこよすぎます。

姫路駅 駅そば

2011年12月23日 | おいしい事
広島の東の外れの山陽線の駅から京都へ帰るべく午前の電車に乗った。
福山までの普通電車に乗る。
福山で乗り換えた岡山行きの電車は相当に古い電車で、
写真にも写してみたが今時、窓を開けることができるし
車体の壁側の肘掛は往年の活躍時の最新鋭高速近郊電車であったろうと懐かしさを感じる。
クリップ式の窓のつまみにしてもそうであるし、
灰皿と窓から張り出している小さなテーブルとその下にぶら下がっているべき
コの字型の栓抜きがもし有れば・・・・・・・・
尚一層郷愁を誘うものになったであろう。



岡山で乗り換える。相生行きの普通電車。
相生で乗り換える米原行きの新快速電車。
で、
姫路駅でかねてからもう一度食べてみたいと思っていた駅そばを食す為に
途中でホームに降りる。



もう一度と述べたのには訳がある。
私は父親に連れられて母親の実家のある八鹿まで急行列車に乗った事が有り
そのときに父親が私一人を車内に残しホームを走りこの《駅そば》を
列車内まで買ってきてくれた思い出がある。
発車ベルが鳴るのに父親が席まで帰ってこなくて私は泣き出しそうであったからだ。
小学校1,2年生だったと記憶している。



どこの駅のそば屋でも言えるが、とにかく手際が良い。
しかし私は、最速の手際のよさを感じたのは、
昔大阪地下鉄四つ橋線西梅田駅の改札を出て少し階段を上った所にあった
カレーショップの座るか否かに出てくるカレーライスの速さは信じがたい速さであった。
10秒以内だ。


大盛りの天ぷらそば。
パシャパシャデジカメっていると、隣で食べていた美人が器を持って移動した。
お話できればと少し期待もしていたのであるが・・・・・。
絶対にあの方は和久井映見似ではなく和久井映見だ。



病み付きになる程では無いと思うが、素朴で好ましく感じる。
何よりも出汁が水ぽいと感じるほどの薄味が私は美味しく感じた。
駅そば自体が利便を追求するものなので、
即ち、《美味い、安い、速い》その3要素は的確にクリアをしているという
表現が適切である。
ここにそば粉の割合だとか、手打ちだとか、自家製だとか熟成だとかの文字は
いらないのだ。

麺が黄白色であるところも珍しい。
しかし、どこかそばの味がするところも不思議だ。

小倉徘徊

2011年12月23日 | 旅先の事
門司港付近の徘徊を終えて、高速バスに乗る為に小倉駅まで戻ってきた。
まだバス発車まで6時間ほどもあるのでどうしようかと悩んだが、
やはり、小倉駅周辺をウロウロと徘徊してみようと
疲れた足は気になってはいたのであるが、解き離れたその探検感情は
納める事ができずに街を徘徊してみる事にした。

商店街を歩いていると、パチンコ屋の景品交換所の入り口に
二本立ての映画館の広告ポスターが目に入り場所をその景品交換所の
小さな窓から覗き込むように問い合わせてそちらに向かう事にした。
で、
到着したのが下画像の映画館《昭和館》である。



楢山節考とデンデレの二本立て。
今では古い作品である。
結局、その作品に今の私の感情では作品中で見る側に作品が意図するところが
見出せずに、今は亡き怪女優の清川虹子と左トンペイの絡みが
その重なる裸体に嫌悪感と不快感がいっぱいで、又、作品自体が薄暗く
ただ単に裸を見せるだけの展開にうんざりもしていた。
デンデレなんぞは見るに値する作品ではない。
と、感じて途中で《もういいわ~》の気持ちとなり退出する事にした。

しかし歴史を持つ映画館のようで、映画館を管理しているおにいさんと、
おねえさんに歴史を聞いてみるとなんと70年を越えるという。
あと、駅の反対側に成人映画専門の映画館があるとも聞いたので、
次回は中途半端なエロものを見るのであれば、
非現実なありえない展開の成人映画の作られた裸体の方がまだ興味があり
永居ができそうにも思う。



小倉駅付近で夕御飯にしようと思ったのが午後の8時前
この時点で午後10時50分の阪急高速バス京都駅八条口行きへの時間までは
三時間弱、少し小倉駅近辺をウロウロしていると
店の前に果物をディスプレイしていてなにやら中でオネーちゃん
(おねえさんではなく、オネーちゃん)とカウンター越しに談笑して話している
男たちが通りから見える。
フレッシュジュースを飲みながら、オネーちゃんと会話ができるのか?
と、思っていると一人のオネーちゃんが店から出てきて私に声をかけた。
野菜や果物のカクテルを提供していた。
その場でジューサーを使って絞って、オリジナルのカクテル飲ませている。
笑顔がすばらしいので、写真に収める。
肉感的な女性で、京都の祇園や江戸赤坂、銀座で充分通用する容姿。
少し会話が店外で楽しめた。
努力している女性であったので応援してみたい気にはなるのだが、
なんせ私は酒を飲まない。
ブログ読者の淋しい男性諸兄は是非、行って応援してあげて欲しく思う。



小倉駅周辺で夕飯をすることにしたので適当なところを探すのであるが
結局無難な店が無く、
《サイゼリア》である。
こんな時にでも、迷いが生ずればファミレス系統へ食への欲求が脳内で変化する。
要するに、その判断基準は《当りはずれが無い》という事に起因する。
小倉駅は電飾で飾られているものの少しセンスは無い。
要は中途半端。

門司港 その②

2011年12月18日 | 旅先の事
門司港駅到着前の列車の車窓から進行方向左側に座っていた私は、
古い客車と機関車の展示施設があるのを目ざとく見つけていて
早速、その施設へ足を運ぶ事にした。
九州鉄道記念館 明治24年、九州鉄道の起点が誕生した。
その歴史を展示公開している記念館である。
赤レンガ造りの展示館は九州鉄道会社の本社屋がそのまま使われていて
鉄道院~鉄道省~日本国有鉄道~JR九州へと受け継がれたが、
永きに渡り九州の鉄道の中枢を担ってきた建物でありその美しさは
直線を基調とした美しいものである。



ディーゼル好きの私は興味を持ったのが下記の写真のキハ07 
昭和12年製造(日本車輌)の車両である。



運転席にはシフトレバーが突出しているし、
足元にはクラッチペダルとアクセルペダルがあるのも驚きである。
トルクコンバーターが開発される前の気動客車はギヤシフトチェンジを
必要としていたようだ。即ちマニュアルトランスミッション。ATではない。



すごく美人の入り口受付のお嬢さんと会話を交わせたことも喜びの一つであったが、
あまりにも美人だったので例によって笑顔を頂戴してカメラに収めたい旨を
言いそびれてしまった。照れてしまう自分が格好悪い。
で、
一通り館内を見学して門司の港町を漂流することにした。
昭和30年代~50年代前半の香りを漂わせている街は、
発見と驚きの物象にあふれていて飽きる事は無い。

栄町銀店街。
昔ながらの商店街アーケードをふらふらと歩く。
閉店なのか?休業なのか?廃業したのか?全く分からない食堂の看板に注目してしまった。
なんと、その名も《平民食堂》
いかにも大衆向けの名前で安い定食がメニュー(ここではたぶんお品書き)に有りそうだ。



すごい名前の店を発見した。
《立花流麺打ち研究会》私は入る勇気がなかった。うどんは好物なのであるが、
この研究会というアカデミックな名前に気がまいってしまった。
又、店前は八百屋さんなのであろうか?



強烈な地域地図を発見!!!
全く分から無い地図だが時計屋さんであることは分かる。



せっかく、門司港まで来ていながらにして、昼食はJOYFUL(ファミレス)に入る。
先に訪れた、鉄道記念館の美人のお嬢さんは、
名物焼きカレーをお奨めいただいたのであるが、どんな風なものと聞けば、
「ドライカレーみたいなものです。」との事であった。
ドライカレーみたいなものという事は、どのようにアレンジしてもドライカレーでは?
という観念に脳内が支配されて、結局はファミレスで昼食をとる。

そのファミレスのお兄さんからお奨めと聞いたのが、下記の写真にある抹茶大福である。
《なごしの星野村石挽抹茶生大福》
福岡八女の星野村の抹茶をたっぷり使用した抹茶クリームを
丹波大納言を炊いた粒あんで包み、それを柔らかい羽二重餅でもう一層包んで、
たっぷりと抹茶を振りかけていた。
美味い!甘味がしつこくなく上品である



その名も大連通りという波止場に出て、関門海峡を行きかう船と関門橋を見ながら、
小雨をかぶりながらも美味しくいただく。
少し体が冷えたので、又歩き出す事にした。


で、
バナナの叩き売り発祥の地。
実際に輸入されていて昔は相当量のバナナがこの門司港へ荷揚げされていたらしい。
この界隈には多くのバナナの屋台が並んだという。
だから叩き売り発祥の地である。



少しビビッてしまった。
その名も《無法松》である。
私は覗く勇気がなかった。
ガテン系の衣料品や装束を取り扱う店である。
ワークマンの九州版。特に小倉版とでも言えるかもしれない。



門司港一の強烈な主張である。
そういえば寂れた飲み屋街の出口付近に有り、
そっち系の人たちの集う事務所も有った地域の外れに有った。
写真を撮っていると店内からの鋭いまなざしを感じた。
早々に退散である。
しかし店主らしき人はパンチパーマではない。



で時間も時間となり、バスの時間まではだいぶと早いが小倉駅へと向かう事にした。

かえり船 田端義夫.


そんなこんなの門司港での徘徊は書きつくせない程のサプライズの連発である。
しかし、歴史的に観光地として整備が進んでいるものの、そこを訪れる人影は
以前ブームであったときに比べればたいそう減ったとも聞いた。
ブーム時は韓国中国人観光客が大挙して訪れたと聞く。
彼ら大陸の人々にとっても、日本帝国が大陸進出の為に繁栄した港町の遺構を
見てどのように感じたのであろうか?
先の大戦時のように喚起の声と歓送の音楽で勇ましく出港して行く船の姿は
当然、見受けられないし、又、その負の面影すら遠く忘却の彼方にあるようである。
せめて、生き残りこの門司港にかろうじてたどり着いた先人の苦労と心を慰めようと
現在の平和を教授している私は
今回は《かえり舟 田端義夫》をチョイスした。

門司港 その①

2011年12月13日 | 旅先の事
博多で仕事を済ませ、経費節減のため深夜の高速道路をひた走る
夜行バスで帰ることにした。
22時前に博多を出発するバスまでの時間を潰す為に、
それじゃ~少しウロウロして帰ろうと博多からそのバスに乗車せずに
小倉駅前からの乗車券を購入した。
どうも博多は都会すぎるので、小倉でウロウロする事にしたからだ。
数年前に少しブームになったが、小倉駅を二駅ほど行き過ぎた九州の玄関口
門司港のレトロな雰囲気を味わう事にした。

で、1時間と少しで博多駅から門司港駅に到着する。
本当に古いひなびた駅である。



先の昭和の不幸な時代は、この駅が祖国との別れの駅であり、又、
多くの今も在日する旧植民地、及び統治国の人々にとっては日本への第一歩を
ここよりスタートした駅でもあろう。
戦中は300万人の軍人や軍属がこの駅を利用して戦地や外地へ向かい
半数の人たちがこの駅へ帰ることができなかった死出の旅立ちの駅でもある。
そんな歴史観を持って、プラットホームに降り立った。



で、駅前から早速、開放的な駅前広場の周りを見渡してみた。
空が冷たく灰色で低いがどこからか流れ込む温かい海風が気持ちよい。
少し歩いただけで古い港湾関連の旧施設の建物や旧財閥の社交クラブを
見ることができる。



そんな門司港の港湾地域を散策していて感じたことであるが、
んんんん~~~~~~?
町興しとしてこのように整備修復されているものをレトロと呼んでよいのか?
できることなら、古びたままで手付かずの朽ちたら朽ちたままの方が
良いのではないであろうかと思いつつも古き往年の栄えた港光景を
思い描きつつ、今にある街の雰囲気を楽しんでみようと少し決意して
相当な距離をガイドブックを頼りにせずに自分なりの観点があろうかと
意を決めてようし~~~と歩く事にした。



♪ いい日旅立ち・西へ  谷村新司


西へ向かう私は出会いを求める訳でもなく、又、新しい自分を見つけることも無く
今、生きているという現実を忘れたいが為の旅なのかもしれない。
この頃では既に遠くへ行くという行動が無心に近い行動になりつつある。
そんな最近にあって、生きるという辛さや深刻な悩みや思考すれば思考するほど
苦しい事象の絵巻物が走馬灯のように回転して脳内で色合いや図柄が混ざり合っているが、
時として単純にその地へ正確にたどり着く事と到着時間だけを目的とする事が
全てである行動に集中する事ができる往路でそれら脳内の混合された分からないものを
全てを捨てることができている。
復路は、往路の苦労の為に疲労困憊していて、朦朧たる意識の中でのみ
その意識に働きかける強烈な事象にしか感情の反応は起りはしない。
その時の私の脳内はある意味、事象に反応しないインポテンツなのだろう。
よほどの刺激が無いと感情の喚起は無いようだ



そんな状態で、レトロ化されていない素の門司港、そして後日記載するが小倉の街は
久々の反応を得る事ができた。

仙台が静的美しさに感動を得ることができたと表現するなら、
小倉、門司を含む北九州は、性的魅力を感じる。


国道2号線・岩国から少しの距離が悲しい。

2011年12月11日 | 思い出の人
国道2号線は、大阪市の梅田新道を基点として始まり
ひたすら九州へ向けて西へ伸びる。
途中、神戸、明石、姫路、岡山、福山、広島、下関を経て
関門海峡をトンネルでくぐり北九州門司で国道3号泉と繋がり終末となる。
その道中で、広島を過ぎると極端に交通量が減りだし、
岩国を過ぎると工業地帯の狭間であろうか?
行きかう車の量が減少し田舎道の様相を呈する。

その道を、先日、博多まで約670kmを走ってみた。16時間。
11月の初旬にも同様に博多まで走っているのであるが、
その時は初めての全線一般道利用という事でもあり少し関門トンネルあたりで
道順に不知の部分が有ったし、
門司市内で国道3号線を見つけるのに道なりに右へ曲がるカーブの交差点を
直進してしまい、行き過ぎて国道3号線の表示を見失ったりもした。
しかし、今回は同様の行程の2回目でもあり距離と経過時間の予測も完璧であり
予定どおりの時間で通過都市をクリアしていく事ができた。

しかし、岩国で一ヶ所、国道二号線は右方向へ伸び、直進して国道二号線で
錦帯橋方面ではなく外れて直進する方が、
「峠を越えなくて済むよ。」とも聞いた。

例によって、丸亀製麺を宮島で見つけて、うどんを食べる。
今回は、釜揚げ、かしわ天丼。いつもは釜揚げと何かしらの天丼なのではあるが、
先回、仙台で向かいに座っていた知人が大盛りを注文したのに量が少なくて
不満を漏らすので、きっちりとその量を確認する為に釜揚げうどんの大盛りを注文し
下記の写真に納めた。



で、その気になる峠を下りかけた所にひときわ目立つ施設がある。
何なんだろうか?
レストラン?ドライブイン?宿泊所?・・・・・・・・?



和洋折衷?趣向が混濁していてある意味驚いてしまう。



クリスマスシーズンは良く分かるのであるが??????



思わず車を停めて写真を撮ってしまう。

峠を下りきったところに信号機があり、赤信号で停車していると
先ほど岩国市内の国道2号線で私の前を走っていた大型車が通過して行った。
時間的にはやはり峠道の方が速いのであろうか?

次回からはこの錦帯橋方面へ向かわない聞き合わせた道で
この峠をスルーをしてみたいと考えている。

その峠に、私は悲しい話を捨ててきた。
特にその峠に向かう途中の三菱ふそうの営業所横のセブンイレブンは
二度と寄れない場所でもあるし、思い出したくない場所でもある。

片想い /坂本冬美


その駐車場で車で停めて聞いた、
深夜の携帯電話の向こうの白く細いシルク糸の涙声は
たぶん一生忘れる事ができない声だった。




杜の都・トンカツ・笑顔

2011年12月03日 | 旅先の事
京都を昼過ぎに出発し、山形市を目指す事にした。
福井・石川・富山・新潟まで国道8号線をひたすら東北へ。
富山から新潟に入ると親不知の断崖絶壁を上がり下がりしながら右へ左へ
曲率の複雑な道をトンネルをさながら針で縫うように車を走らせる。
本来ならトンネルの合間合間に左側には絶景の日本海や遠くに
佐渡が見渡せるはづなのであるが・・・・・・・。
残念ながら冷たい雨の降る夜の漆黒の暗闇でしかない。
ただ、浜辺に崩れ落ちる波の白い頭だけが街路灯とオレンジ色のナトリュームの光の
薄明かりで見えるだけの景色である。
一部新潟市内に入る手前で国道116号に入りに新潟市内をスルーすると道は
新発田市で必然的国道7号線と合流する。この区間は高速道路並みに走行が可能で快適。
国道113号線で山形市内を目指す。
で、午前4時前に到着。約750km。不思議だが疲れを感じない。

目覚めて仙台を目指すことにする。
私の場合、帰路の方が今回は楽しみにしている旅である。
その帰路の始まりは下の画像の駅、仙山線の単線のレールの冷たさを感じる
木枯らしの吹く駅からのスタート。



途中、山脈を貫くのであろうか長いトンネルがあり、
渓谷をこの列車も縫うように走る。
列車車窓からの景色は、雪景色に変化し如何にも東北だなーと思いにふけっていた。
途中ホームから車内に入る空気にはピンとした清潔感のある冷気に少し寂しさを
感じるのであるが、反してその冷気にどこかのどかな暖かさも感じてる。



1時間ほどで仙台駅に到着した。
朝の通勤時間を少し過ぎたあたりの到着であったが、
やはり県庁所在地で、人は多い。
しかし関西で生活する私にはどこか行きかう人に清楚な雰囲気があり、
静かに歩を進める姿が関西圏や首都圏ではない静かな雰囲気の漂う駅中であった。



以前より、仙台を訪れる事があったなら寄りたい場所があったので
その場所を探すことにする。
《とんかつの大町》
23年前の同時期に訪れて食事をして感動を覚えた場所である。
青葉通りに有ったとだけ記憶をしていて、観光案内所で尋ねてみると
場所や店のことは分からないとの事。
それじゃ、青葉通りを歩いてみようと考えた。
仙台市営バスの案内所でその所在地を店の特徴を言って聞いてみてみたが
分からないとの事。
私は、東急インのあたりとしか記憶に無い。
それなら、東急インの周り行こうと決意し
そちらに向かう事にする。同時に仙台市内を散策する為に乗り降り自由の
ループバスの乗車券を購入した。



で、案内所で聞いた東急インの有った晩翠草堂前で下車。
せっかくなので土井晩翠の旧宅を見に行くことにした。
(思い出の東急インは営業終了し閉鎖されていて巨大廃墟で不気味さを感じた。)
そこで、初老のご婦人に先ほどのトンカツの話をすると閉店されて移転されたとの事。
で移転先は、この場所の一つ手前の青葉通一番町のアーケードが途切れた先に
移転との事を聞き仙台駅に戻るときに立ち寄る事にして、
市内散策を優先することにした。



仙台の市中を歩いてみて本当に木々の多いところである。
今は紅葉の真っ盛りで、少し曇りがちな天気ではあったが秋は深まり
既に冬の様相を呈している。
震災の影響も町のあちこち見受けれれるが、
歩く途中で傍を通った小学校から聞こえる子供達の
元気な声と、《僕らは負けない!》という幟に声援を送りたくなった。



広瀬川の流れは仙台市内を蛇行して街中でありながら谷を形成していて
その深い場所を流れているのが特徴的に感じた。必然的に橋桁の高さも高く、
その橋の曲線とその傍らで色ずく木々も美しい。

土井晩翠の旧宅からさてさてどこへ行こうかと考えていたのであるが
次のループバスの時間までは約20分ほど有るので、
徒歩で伊達政宗の御陵である瑞鳳殿前までを歩く事にした。
仙台の街中を歩く事になるのであるが、東北大学界隈の歩道には落ち葉の絨毯が
散らされて歩く足にも柔らかく感じられて心地が良い。



瑞鳳殿前に到着。
歩を進めて唖然・・・・・・・・。
苦手の急坂の上り坂が200メートルほど続いている。
その坂を上りきった処からは上記の写真のとおりに石段が数段続く。
その奥に見える紅葉の美しさの向こうを期待してもう一つガンバリする。





同じ道を戻り、瑞鳳殿前のバス停から、ループバスを乗り継ぎの名所へと
連れて行ってもらうのだが、青葉城跡で降りる方が大半であったが
私は降りないで次の興味引く場所へ向かう事にした。
石垣が先の震災で崩れて、東北大学のキャンパス内を通行して迂回している。
復旧には相当の期間が必要なようである。
創建当時の石垣のとおりに崩れた石を使って組みなおすとアナウンスがあった。
私はここはと思うところがあれば降りてみようと、
乗車時に貰ったコースパンフレットを見てみるのであるがイマイチ興味がわかずに、
《とんかつの大町》の事が気になりだして市内へ戻ることにした。



定禅寺通市役所前でループバスを降りて、一番町の商店街を南に歩く。
風情のある商店街である。数点の空き店を見受けられるもののがんばっている感を
感じるし、三越をはじめとした百貨店や古くからの地場百貨店、
海外ブランドショップもこの町並みの中に静かに溶け込んでいた。
先にループバスで通過していた青葉通を横断し南へ歩くとやがてアーケードが
途切れた。
曇ったガラスショーケースのタバコ屋の親父さんに尋ねる。
《とんかつの大町》の件。
廃業との事。言葉が無い・・・・・・・・・・。
山下清画伯が良く訪れていて、大きなとんかつを好んで食べていた、
その大判とんかつを山下画伯が名を付けたメニューがあった。
その名も、《元帥とんかつ》
確か壁には画伯の秋の鳥海山を描いた絵が掛けてあったのが記憶にあるので
それも見てみたかったのだが・・・・・・・・・。

残念である。



結局、主目的が適わなかった杜の都・仙台の散策であったが
締めくくりは彼女の笑顔のすばらしさに安らいで締めくくることができた。
なぜか仙台駅でわざわざ好みの丸亀製麺。
落ち着くところはやはり釜玉うどんと天丼。
釜揚げうどんの大盛りの量のばらつきがあることに注意が必要でもある事の
教訓も得る事ができました。(感謝)
丸亀製麺の看板に魔力を感じる今日この頃です。



青葉城恋唄 さとう宗幸


仙台市内ではこれからの季節ライトアップが街中いたるところで行われるようである。
先日訪れた時も感じたのであるが、私の住む京都とは少し緑や木々の植樹の仕方が違うし
人工的でありながらもどこか建物と町景観におけるバランスの良さは
仙台の方が勝っているのではないであろうか?
その中で住む女性の質のレベルも高く感じる。
とにかく薄化粧で色白美人が多い。