私がバイクで徘徊探訪している地域は、
京都北山が中心となるせいぜい行程往復で150kmほどの範囲である。
京都北山と聞き、ほとんどの方は、府立植物園の北側界隈の
おしゃれなお店の通りを思い浮かべるであろうが、
ここで述べる北山はそのことではない。
京都北山は、京都市街から日本海に向かって扇形に広がる山域をさす。
〔鴨川を志久呂橋近辺辺りまで来ると、北山の全景は一部しか見えなくなるほど
近づいてくる。画像の高い峰は手前の697mのピークを手前にその奥の
魚谷山816.2mであろうか?
志久呂橋を渡り更に上流へ渡ると谷間の道となり、雲ヶ畑方面へ向かう。
私の北山へのバイク徘徊アプローチはこの志久呂橋からが常に基準点である。〕
明治以降、スポーツとして近代登山という考え方が入ってきてから
岩登りが中心の外国の登山に比べて、
山中を彷徨うことが中心となり、峠越え、尾根歩き、峰を踏み、
集落を生活道をつなぎ歩く北山登山は、相反するところで、
他の日本の登山の形態とも一線を隔しているといえよう。
また、その山の奥深さが多くの日本の登山者を北山へ駆り立てたようである。
標高は1000mに満たない山が続き、名峰はない。
どこにでもある平凡な里山の類が累々と続いている。
〔二ノ瀬の富士神社横から緩やかなつづらの道を登り尾根道に出て、
叡山電車のレールと車輪のきしむ音が谷間から遠ざかると、
二ノ瀬ユリ道の初めての分岐点の広場に到着する。〕
でも、近所に住まいするからではないが、
常に気が向けば北山山中にわが身を置いている。
究極の地味な山ゆえ飽きが来ないのかもしれない。
古く、長岡京造営に際し、木を切り出したのが京北町山国であり
同様に平安京造営時に際しても、また京市街の戦乱・自然災害の復興時にも
京北町山国、また室町幕府の庇護をうけ黒田・花背・広河原と
木材産出地は拡大していったようである。
〔大森東町から更に谷を詰めていくと谷筋方向は北から北西方向へ回り込み、
やがて林道は消え、バイクでは行き止まりとなる。
しかし、飯森山への道は徒歩で途中尾根に上がり大谷峠となる。
大谷峠を左方向で飯森山から天童山から茶呑峠方面へ・・・
大谷峠を右方向でナベクロ峠から双方向に祖父谷峠方面と桟敷ヶ岳への
尾根道となる。
このように、ひとつの尾根筋に出ると北山は縦横に道が開かれているのも
興味深い。〕
で、当然それら地域の産出地どうしと京とを結ぶ道が必要となり、
実際にその峠のかかり付けを訪れてみると
現在の通常の通り道で国道や府道よりも効率よく集落を結び
ひとつ峰を越えるだけの最短ルートであったり、
尾根を下るだけの最短ルートであることに驚くことが多い。
また、大森、小野郷、雲ヶ畑、鞍馬、大原、貴船などの地は
御所とのかかわりが深く、祖父谷峠、縁坂峠、茶呑峠、芹生峠などは、
これらの地域からの皇室への貢納や、夫役に使われた道といえる。
それよりも昔、まだ都が京でないころ、石仏峠や魚谷峠を越えた
出雲族の民族移動や大陸からの新しい技術を持つ渡来人も
通ったはずである。
京都北山が中心となるせいぜい行程往復で150kmほどの範囲である。
京都北山と聞き、ほとんどの方は、府立植物園の北側界隈の
おしゃれなお店の通りを思い浮かべるであろうが、
ここで述べる北山はそのことではない。
京都北山は、京都市街から日本海に向かって扇形に広がる山域をさす。
〔鴨川を志久呂橋近辺辺りまで来ると、北山の全景は一部しか見えなくなるほど
近づいてくる。画像の高い峰は手前の697mのピークを手前にその奥の
魚谷山816.2mであろうか?
志久呂橋を渡り更に上流へ渡ると谷間の道となり、雲ヶ畑方面へ向かう。
私の北山へのバイク徘徊アプローチはこの志久呂橋からが常に基準点である。〕
明治以降、スポーツとして近代登山という考え方が入ってきてから
岩登りが中心の外国の登山に比べて、
山中を彷徨うことが中心となり、峠越え、尾根歩き、峰を踏み、
集落を生活道をつなぎ歩く北山登山は、相反するところで、
他の日本の登山の形態とも一線を隔しているといえよう。
また、その山の奥深さが多くの日本の登山者を北山へ駆り立てたようである。
標高は1000mに満たない山が続き、名峰はない。
どこにでもある平凡な里山の類が累々と続いている。
〔二ノ瀬の富士神社横から緩やかなつづらの道を登り尾根道に出て、
叡山電車のレールと車輪のきしむ音が谷間から遠ざかると、
二ノ瀬ユリ道の初めての分岐点の広場に到着する。〕
でも、近所に住まいするからではないが、
常に気が向けば北山山中にわが身を置いている。
究極の地味な山ゆえ飽きが来ないのかもしれない。
古く、長岡京造営に際し、木を切り出したのが京北町山国であり
同様に平安京造営時に際しても、また京市街の戦乱・自然災害の復興時にも
京北町山国、また室町幕府の庇護をうけ黒田・花背・広河原と
木材産出地は拡大していったようである。
〔大森東町から更に谷を詰めていくと谷筋方向は北から北西方向へ回り込み、
やがて林道は消え、バイクでは行き止まりとなる。
しかし、飯森山への道は徒歩で途中尾根に上がり大谷峠となる。
大谷峠を左方向で飯森山から天童山から茶呑峠方面へ・・・
大谷峠を右方向でナベクロ峠から双方向に祖父谷峠方面と桟敷ヶ岳への
尾根道となる。
このように、ひとつの尾根筋に出ると北山は縦横に道が開かれているのも
興味深い。〕
で、当然それら地域の産出地どうしと京とを結ぶ道が必要となり、
実際にその峠のかかり付けを訪れてみると
現在の通常の通り道で国道や府道よりも効率よく集落を結び
ひとつ峰を越えるだけの最短ルートであったり、
尾根を下るだけの最短ルートであることに驚くことが多い。
また、大森、小野郷、雲ヶ畑、鞍馬、大原、貴船などの地は
御所とのかかわりが深く、祖父谷峠、縁坂峠、茶呑峠、芹生峠などは、
これらの地域からの皇室への貢納や、夫役に使われた道といえる。
それよりも昔、まだ都が京でないころ、石仏峠や魚谷峠を越えた
出雲族の民族移動や大陸からの新しい技術を持つ渡来人も
通ったはずである。