あけっぴろげな本音は、発言者の深い倫理観に裏打ちされて、はじめて建前の欺瞞を穿つ言葉になるのであって、馬鹿が正直であったとしても、ただの馬鹿でしかない。演技としてのあけっぴろげはさらに悪質。
自分の側のいわば通路をみがいて(通して)おかなければ、決して納得でき得ない内容の知識がある。知識と意識が相関していることは、これまではおそらく一部の人々の課題であっただろうが、これからは民衆的な課題になるだろう。そして音楽や芸事には、そこを繋ぐ鍵がある。
あきらめは理解の後にやって来る。しかも理解と共にあきらめも消える。あきらめたつもりのものは理解に至っておらず、未だ心中の暗雲となっている。
考えを変えさせる戦略は、どれだけ正しくともエゴであるからおそらく失敗する。考えを深めさせる手助けは逆に成功するだろう。
ただのもの知りも退屈だ。こだわりが無くしかも物の見方が変わっている人は、話して飽きない。
自分にこだわりが強い者は、こだわりが強いとはよもや思わない。やたら問題が降りかかると思う。
全体の循環を想像できない限り、私には痕跡すら残らない。
好きなことをするとは、瞬間瞬間好きなことで満たされているということ。頭の中が妄想のままでは意味がない。
攻撃するということは、相手を砕いてその種子をばらまくということ。