午後はピアノの先生のレッスンだったのだけれど、歌の指導について考える時間でした。この方は退職されるまで、学校で音楽を教えてらっしゃった。退職後はピアノ指導、合唱指導をされている。
先生がピアノを伴奏して、歌わせるという指導が学校で定着しつつあるとのこと。『これなら先生はラクですよ』とおっしゃっていらした。
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生徒も歌いながら歌を覚えるよで、『譜面通りに』ができない、とおっしゃっていらした。なるほどなぁ、と思いました。
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『耳でメロディを覚える』ことと、『譜面でメロディを覚える』こととでは、結果は違うのかもしれないと思いました。
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何が違ってくるかというと、耳でメロディを覚えると、『なんとなく、こんな感じ』という、『大雑把』になりやすいのかもしれません。譜面にない音が存在していても、『気にならない』。
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『作品』とは、すでに音の配列が定められています。『決められたことを、やれること』が必要なわけです。できないといって、作品をいじり、『自分のやりやすいようにする』ことは許されない。
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譜面を通すことで『するべきことが、明確にわかる』。聞いて覚えるというのは、『するべきことが、抜け落ちる可能性が高い』。
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『自分の都合のいいように聞き取り、理解したつもりになってしまう』。そうすると、『自分のやりやすいようになる』可能性が高いかもしれません。
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別の見方をすると、『譜面を読めれば、聞き取る力はそれほどなくてもよい』。ということでもあります。
僕は子どもの時、エレクトーンをやっていめした。先生は新しい曲になると、1回弾いてくれるんです。僕は譜面を読むことは苦手だったので、先生が弾いてるのを聴いて、メロディを『こんな感じ』のところで覚えていました。
芸大の授業で音楽理論がありました。僕は音楽理論が苦手だったので、単位を落としました。僕以外は全員取っていました(笑)。
大学では重音楽部に入っていました。ロックやヘヴィメタルをやっていたので、『軽音』ではなかった。すると皆、『耳コピ』なんです。しかも『細部までコピーしている』。
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音楽学科や演奏学科の人は必ず『譜面ないの?』とか『譜面があれば弾ける』と言っていました。僕は耳コピでした。
部員で話しをしていても、『完コピせなあかん』というのが『当たり前のこと』としてありました。耳コピしてメロディを理解したのと、完コピしてメロディを理解したのとでは、理解の質が違うんですね。
僕は日常会話も、話し手の声を細部まで聞くようにしています。言葉よりも、声の細部を聴いているのかもしれません。細部を聞き取ることで、声をかける時の言葉が決まってくる。
声をかける時の、言葉と声が決まってくる。そういう聴き方をしているのと、なんとなく入ってきているのを聞くのとでは、表現は明らかに変わってくると思います。
譜面でメロディを理解すること。耳でメロディを理解すること。どちらにしても、細部まで知ろうとすることにおいては、『変わりはない』と思います。
前提として作品があるならば、『作品に自分を合わせる』ことが前提です。耳では、なんとなくでしか理解できないのならば、譜面は大いに使うべきです。もちろん、僕も作品を理解するために、譜面を見ることもします。
譜面を通して理解すること。耳を通して理解すること。両方を使えたらいいと思うのです。
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どういう声で読んだらいいか。どういう声で歌ったらいいか。こういう質問を受けることがあります。それは、『作品が教えてくれます』。
いろいろな声を出せたり、技術があるのは、『作品を表現するためのもの』。それ以外として、『それらを通して、生き方』を自分に持つということ。僕個人としては、後者が圧倒的に強いです。強いというのは、声を磨くこと、技術を体得することの『意味』としてです。
声?話す?読む?歌うを通して、『身体と心を育む』。そういう空間を創りたいですね。
一度怒られたくらいで、ダメになってしまうんじゃ、こっちが困る。怒られたら、次は三十センチ近寄るくらいでやれ! と言いたい。amzn.to/qfPwse
明日の夜は、松本市公民館運営審議会。答申提出へ向け、3部会にわかれて議論を重ねてきました。