バーチャル(擬似)はバーチャルに、真は真として、実は実として。バーチャルな真・実は我を騙し、真・実のバーチャルは存在せず。真・実に属すバーチャルはあり、バーチャルが真・実に仕えることもある。言葉、文字、イメージ、意念、想定、型式、体系、動作、動き方、教義は全てバーチャルである。
また、「型」の稽古を“もっともらしい本当っぽい擬き”にせず居られるか否かは稽古においての要となる。私たちは思っている以上に自分の“擬き”に騙されていることが多い。言葉、文字、意念、イメージ、想定、型式などは擬きを真と錯覚する格好たる要素である。用いて良し、されど騙されぬよう。
これらの行いは武術の稽古においても“立つ”“しゃがむ”“手を動かす”“歩く”と並んで基礎中の基礎となる。何事においても基礎が養われ整理されてなければ応用・変化へと移行されることはない。⇒
ただ、無自覚に養われていた基礎が生活様式の変容から変質し、失われていった場合にはワザワザだが基礎を養わなければスタートラインにでさえも立てなくなる。あらゆる稽古方法を駆使し回帰を計らわなければ今の私たちは更に身体の自然から離れて行くだろう。
しかし、「掴む、握る、持つ、とる、かける、おさえる、むかえる」等の行いをワザワザ「型」として稽古し、棲み分け、養わなければならない身体の時代へ突入したとは古の人からすると可笑しなことだろう。
しかし“手ごたえがある”と言った時に何れだけの人が、どの手感覚・身体感覚を自分が言っているか棲み分けられているものだろうか。それか多くは訳わからず結果として出来ることだけに注目していて、そのことは考えてみたこともないのか。しかし、それでは因果関係の果のみに注目していることとなる。
人間同士が稽古するなかで「場」「式」に伴い「型」が存在する意味とは其のようなことではないだろうか。そこから個々の「行、形、動、感、意、働」を省み、自身の中にある古を稽うことが稽古の要となるだろう。⇒
また「場」「式」と“人”だけでも“稽古擬き”は幾らでも出来る。まぁ“擬き”も人間らしいかと言えばそうであり、個々が背伸びせず個々のペースに合わせて出来る所からするしかないのも事実ではある。が、稽古が擬きになっているか否かは武術を稽古する者としては大きなテーマである。
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