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まくらが歌謡楽団のブログです♪

童謡・唱歌 「七つの子」

2020-01-10 13:11:00 | 日記
童謡・唱歌の話題が出たので、今日の題名は「からす」

からすといえば、「七つの子」「夕焼け小焼け」


どうしてなのかな~この歌を聴くと、何かじ~んとしてしまうのは…
幼き日の思い出?それとも何か、童謡・唱歌には日本独特の風情が隠されているのか…
「七つの子」は野口雨情が作詞、本居長世が作曲した歌。 大正10年(1921年)、児童文学雑誌『金の船』の7月号に発表された。
野口雨情は、皆様もご存知の通り、北原白秋、西條八十と共に素晴らしい童謡を世に残したことでも有名。そしてなんと、野口雨情は、茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)に生まれ、本名は英吉さんとおっしゃる(私の祖父と同じ名前😄 )そうですが、さすがペンネーム、上手い!ですね😍 

さて、野口雨情の生涯を見ていくと、何かいつも暗い影があって満たされない、明るい日のあたる場所を常に追い求めて生きていった人のように感じますが、だからこそ芸術家魂のある素晴らしい作品が生まれたのかもしれません。
代表作には、
『十五夜お月さん』
『赤い靴』
『青い眼の人形』
『シャボン玉』
『こがね虫』
『あの町この町』
『雨降りお月さん』
『証城寺の狸囃子』
『よいよい横町』
『波浮の港』
『船頭小唄』
どれも大変有名ですね!特に私は「あの町この町」「波浮の港」が大好きです。いつか、皆さんと一緒に歌いたいですね♪

そして、作曲の本居長世。
ウィキペディアに、興味深い事がたくさん載っていましたので、やや長文ですがそのまま掲載します。

1885年(明治18年)東京府下谷区御徒町に生まれる。国学者として著名な本居宣長の和歌山学党6代目に当たる。 
生後1年で母と死別。養子であった父が家を出たため、やはり国学者であった祖父、本居豊穎に育てられる。祖父の期待に反して音楽家を志すようになり、1908年(明治41年)東京音楽学校本科を首席で卒業、日本の伝統音楽の調査員補助として母校に残る。なお、同期にやはり作曲家となる山田耕筰がいる。1909年(明治42年)器楽部のピアノ授業補助、翌1910年(明治43年)にはピアノ科助教授となり、ピアニストを志すが、指の怪我で断念。このときの教え子に中山晋平や弘田龍太郎がいる。1918年(大正7年)「如月社」を結成。この如月社で本居長世の作品を独唱したのが美しいテノールの音色を持つバリトン歌手、藤山一郎(東京音楽学校声楽科出身で、慶應義塾普通部のころから本居長世のところに出入りしていた)である。また、本居長世は宮城道雄や吉田晴風らの新日本音楽運動に参加、洋楽と邦楽の融合を模索した。 
折から、鈴木三重吉による児童雑誌『赤い鳥』が創刊され、従来の唱歌に代わる「童謡」と呼ばれる新しい歌が人気を博していた。これに呼応し1920年(大正9年)中山晋平の紹介によって斎藤佐次郎による児童雑誌『金の船』より『葱坊主』を発表。同年、新日本音楽大演奏会で発表した『十五夜お月さん』は、長女みどりの歌によって一躍有名となり、以後野口雨情等と組んで次々に童謡を発表する(みどりは童謡歌手の第1号となり、童謡歌手のレコード吹き込み第1号ともなった)。その後、次女貴美子(後に三女若葉も)等とともに日本各地で公演を行った。1923年(大正12年)関東大震災により甚大な被害が発生すると、日系米国人を中心に多くの援助物資が贈られた。その返礼として日本音楽の演奏旅行が企画され、本居長世も2人の娘とともに参加し、アメリカ合衆国各地で公演を行った。1945年(昭和20年)肺炎により死去。

「童謡」は、誰もが口ずさめる簡単なもの、民謡のように自然発生した歌のように思われそうだが、この曲について調べてみると、その頃の日本では音楽、文学の中心にいた方々によって大切に育まれた芸術ということができそうだ。それは、心の玉手箱。
昨今の小学校では、小学唱歌をほとんど歌わないそうだが、とてももったいないことだ。童謡は、ただ歌うだけでなく、優しい心と情緒も育てる。良いのか悪いのかわからないが、この歌のせいか?私は、からすを悪い鳥だと思うことができない。同じ鳥なのだから、すずめも、それからお店で売られているインコも文鳥も~みんな命ある鳥、一生懸命に生きているのだ。だから、庭にカラスが来ると、思わず話しかけてしまう…

「童謡・唱歌」も、日本の芸術の1つとして、歌声広場では後世に残るように、歌い継いで行きたいと思う。