□『美作の野は晴れて』第二部16、時の過ぎゆくままに
学業の方は、1学年は留年にならずになんとか乗り切った。2学年になると、科目履修がさらに厳しくなる。大学一般教養の物理を習うようになった。数学も級数、微分、積分と進んでいくうちに、またもや理解不足が目立ってきた。「わかっていない」ことが重なると、累積効果でなおさらわからなくなっていく。それが怖いし、「何とかせにゃあいけん。何とかしよう」という気持ちになる。その癖、同じところをぐるぐる回るばかりで、気ばかり焦って、前進していかない。
授業にはきちんと出席を心がけ、ノートも丁寧にとっていた。それなのに、ついて行けないのは「やはり適性が違うのではないだろうか」と自問自答する日々が続いた。そんな日々が続いたせいか、2年の途中で病気を患った。はじめは、食欲が異常に増進してきた。そのうちに、空腹時におなかが「チリチリ」焼けるように痛くなった。津山市内のN病院に行き、先生に診察を受け胃のレントゲンを撮ってもらった結果、胃潰瘍である
ことが判明した。それは沢山撮られた写真の一つを先生から見せられ、そこに穴のようなくぼみが写っていることでわかった。先生から薬を渡され、気を楽に持つように言われたのではないか。3ヶ月位通院したり、母に柔らかめのご飯を作ってもらったりして、うまく直ったようだ。
その後は、勉強の方も少開き直りができたようで、気も落ち着いてきた。友人関係もよく、M君などはよくノートを見せてくれた。数学にしても、定型的な問題は解き方にパターンがあり、それを覚えることで半分の点を取ることを心がけた。優良可の不可は60点未満なので、その作戦はたぶん当たっていた。
もう一つ心がけたのは、苦手な科目でも、興味を持てることが見つかれば、思い切って前へ出てわかろうと努力することだった。そうすると、前向きの心が出てくる。その試みは、半ばはうまくいき、後の半ばはうまく行かなかった。はっきり言って、高専に入ったのを公開する暇はなかった。自分の学力では授業とみんなについていくことで精一杯の日々が続いた。
そんな2年次の中でも、新しい楽しみは幾つも見つけた。放課後、一人で駅に向けて帰るとき、途中で専門店街の方に曲がったりした。裁判所前の通りを下ってきて、銀天街を入り、そのまますすんで行くと、当時は富士銀行とか中央郵便局がある。その銀行の通り向かい、郵便局の隣には柿木書店があった。書店には1階と2階があり、1階がふつうの本、2階が学習参考書などの専門書が並べられていた。自転車は郵便局に置いて、おもむろに店に入っていく。僕が真っ先に向かうのは、1階の奥まったところにあるレジのさらに壁際にある文庫コーナーだった。
(つづく)
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