○○51『自然と人間の歴史・日本篇』飛鳥への道

2015-09-28 23:27:40 | Weblog

51『自然と人間の歴史・日本篇』飛鳥への道

 中国大陸では、589年に隋(スイ)により南北朝が統一された。さらに、618年、武川鎮軍閥の李淵(りえん)が、隋王朝の煬帝亡き後の最後の皇帝、恭帝に帝位の禅譲を迫った。これには、彼の息子李世民(りせいみん)の後押しがあった。こうして高祖として唐の帝位にのぼった李淵は、三人の子のうちの長兄を太子にしていた。ところが、626年の玄人武門の変で他の二人を李世民が討伐してしまう。李淵は仕方なく李世民に後を譲ることとし、李世民は唐の第二代太宗として即位する。それから249年に太宗が死ぬまでは、唐の躍進期であって、「貞観の治」として広く知られる。
 中国大陸が隋による支配の間、日本から遣隋使が派遣されていた。607年には、小野妹子が派遣される。翌608年には隋からの答礼使が倭に来て返礼を行った。唐王朝になってからは、630年(舒明2年)に第一次の遣唐使が派遣される。大使を犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)、副使を薬師恵日(くすしのえにち)といい、日本側としては並々ならぬ意気込みで始まった。その目的としては、当時の先進国であった唐のすべてから、日本の治世に役立つものを選り分けて、日本に携えて帰ろうとしたものであろう。
 660年(大化16年)には、新羅が積年の的である百済をついに攻め滅ぼす。668年になると、新羅は唐と連合して、内部闘争で自壊傾向のあった高句麗も滅んでしまい、新羅は676年には唐の勢力を大同江以南から追い出し、ここに新羅による朝鮮半島の統一が成ったのである。このあたりの歴史スペクタルというか、虚々実々の駆け引きや、愛憎劇なども含めて、韓国のテレビドラマがインターネットなどで沢山放映されている。そこでは、百済と友好関係を結んでいた大和朝廷が「任那日本府」というものがあって、それを植民地のように経営していたかのように思われがちである。だが、そんな事実はなかったというのが2014年現在の両国の歴史研究者の一致した見解なのだ、とも言われているところだ。
 『日本書記』によると、527年、倭国に筑紫の豪族「磐井の乱(いわいのらん)」があった。その年代及び大王名は、後代の「正史」とされる『古事記』にも書かれている。それがどの程度史実に基づいているかについては、今でもはっきりしていない。同書によると、この乱が起きたのには、当時の中国、朝鮮との関係が横たわっており、筑紫の磐井氏が新羅と組んで、大和の勢力の朝鮮征伐の動きに反応したことになっている。ともあれ、大和の勢力は磐井のこの動きに神経をとがらせ、次にあるように、九州「筑紫御井郡」に攻め込み、磐井方と激戦の上、ようやく乱を鎮圧できたことになっている。
 「天皇詔大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等曰、筑紫磐井反掩、有西戎之地。今誰可將者。大伴大連等僉曰、正直仁勇通於兵事、今無出於麁鹿火右。天皇曰。可。
(中略)大將民之司命。社稷存亡、於是乎在。勗哉。恭行天罰。天皇親操斧鉞、授大連曰、長門以東朕制之。筑紫以西汝制之。專行賞罰。勿煩頻奏。(中略)「大將軍物部大連麁鹿火、親興賊帥磐井交戦於筑紫御井郡。旗鼓相望、埃塵相接、決機両陣之間、不避萬死之地、遂斬磐井」(『日本書記』巻第十七、「男大迹天皇 繼體天皇」より抜粋)
 当時の倭国は、高句麗、新羅の勢力に推されて、朝鮮半島での政治的地位と経済権益が衰退しつつあったことがある。587年、蘇我氏と物部氏との争いで、蘇我氏が勝利した。このとき、厩の皇子(うまやのおうじ、のちの聖徳太子)は574年に生まれ、長じては大陸からの帰化勢力の代表である蘇我氏側の指揮官となっていた。

(続く)

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