155『自然と人間の歴史・日本篇』室町政治の混乱(1392~1467)
1392年(明徳3年にして元中9年)の明徳の乱後、山名氏の後釜には、赤松教政が美作守護に任じられ、赤松氏が美作を実質支配することになる。その9年後の1441年(嘉吉(かきつ)元年)には、播磨を本拠地とし、美作守護であった赤松満祐(あかまつみつすけ)が足利幕府の6代将軍足利義教(あしかがよしのり)を殺害する。その時のことを記した後崇高院伏見宮貞成親王の日記にこうある。
「(嘉吉)元年六月、○(にじゅう)五日、晴。昨日の儀粗(あらため)聞く。一献両三献、猿楽初時分(はじまりじふん)、内方ど々めく、。何事ぞと御尋ね有るに、雷鳴かなど三条(実雅)申さるるの処、御後(おうしろ)の障子引あけて、武士数輩出て則ち公方を討ち申す。・・・・・赤松(満祐)落ち行き、追懸けで討つ人無し。・・・・・将軍書此の如き犬死、古来其の例を聞かざる事なり。」(後崇高院伏見宮貞成親王『看聞御記』より抜粋)
この将軍誘殺事件の遠因だが、1427年(応永34年)、赤松義村の死後、当時の将軍足利義持が、嫡子の満祐から播磨の所領を召し上げて赤松一門の赤松持貞に預け置こうと画策した。持貞は間もなく別件で死罪に遭うという事件を引き起こす。そのため、赤松の力を削ごうとする話は頓挫した。足利義教が将軍になってからも、満祐の弟、赤松義雅(よしまさ)が義教の不興を買って所領を没収される。
これで赤松本家も、再度将軍家に所領を召し上げられそうな気配を感じた満祐が、先手を取って義教を手にかけたものである。なんとか京都を脱出し、領国の播磨に逃れた赤松満祐と総領家一門であるが、追討に熱心な山名氏によって激戦の末に滅ぼされる。山名は、明徳の乱で所領の美作を奪われた経緯があって、これの奪回と勢力拡張に向けて、一門が結束していた。幕府による赤松勢力の一掃はその後も全国で展開され、満祐の弟・則繁(のりしげ)に至ってはなんと朝鮮に渡って「倭寇(わこう)」として猛威を誇ったりしていたものの、帰国したところを幕府軍によって河内に滅ぼされた。一族の中には、追求を免れるため赤木姓を名乗る者も出る始末で、赤松の残党は全国に散り散りとなって、落ち延びたそれぞれの地域で土着していくのであった。
将軍家が足利義勝へ代代わりとなってからまだ日の浅い1441年(嘉吉(かきつ)元年)旧暦9月、京の都の周辺に大挙して起こったのが「嘉吉の徳政一揆」と呼ばれる。その模様については、武伝奏万里小路時房が記した『建内記』に、こうある。
「嘉吉元年九月三日・・・・・近日、向辺(しへん)の土民蜂起す。土一揆と号し、御(徳政)と称して、借物(しゃくもつ)を破り、少分(しょうぶん)を以て押して質物を請(う)く。・・・・・(侍所(さむらいどころ))多勢を以て防戦するも猶承引せず。・・・・・今土民等、代始めに此の沙汰は先例と称すと云々。言語道断の事なり。・・・・・(同十日)・・・・・今度土一揆蜂起の事、土蔵一衆(どぞういっしょう)先(まず)管領(かんれい)に訴え、千貫の賄賂を出す。」(武伝奏万里小路時房『建内記』より抜粋)
この徳政、つまり「借金などの棒引き」を掲げる「土民一揆」が収拾される過程において、足利幕府としての、初めての徳政令が出されるのであった。なお、この時の管領は細川持之(ほそかわもちゆき)が務めていた。こうして幕府の権威は、いやが上にも衰亡の一途を辿り始める。
同年、山名教清(やまなのりきよ)が久米郡に岩屋城(現在の久米町中北上)を築く。翌1442年、伯耆・因幡を本拠としていた、山名氏の一族である守護大名の山名忠政が津山の地に「鶴山城」を築いて、山名氏による支配が強まっていく。1467年(応仁元年)に応仁の乱が起こると、全国の武士の多くは東西の陣営に分かれて、その中にも群雄割拠の有様となり、赤松氏方の将・中村五郎左右衛門尉が、山名氏が上京した後をねらい、院庄に入る。以来、11年間の大乱が収まる頃の美作においても、族長たちは赤松方、山名方に分かれてひしめき合う状況となっていく。
(続く)
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