7『美作の野は晴れて』第一部、冬場の狩り
私たちの子供にとって、春の訪れを感じさせるものとしてやはり遊びであったろう。よきに付け、悪しきに付け、私たちは自然に抱かれて生きていた。その中でいの一番の遊びとしては、やっぱり魚とりであったのかもしれない。そうはいっても、真冬の間は、水面に氷が張っている場合が多いので、出掛けるのもけだるく感じられる。そんな寒中においても、「柴付け漁」といって、主に池に行って、笹付きの小竹を切って担いでいって沈めたり、川藻のぎっしり生えたところに竹そうきを立てに入れて腕で支え、足で水面からドスドスと踏み込むこともあった。そうすることで、水中や泥の中にいるどょうの類をそうきの中に追い込んだりしていた。しかし、意気込みとは逆に少ししか採れなかった。多分、かれらは半分は小沼の土中に潜んでいたのだろう。
それが3月の啓蟄の頃(3月6日)ともなると、朝晩はまだ冷えるものの、日中太陽が上がるとかなり暖かい。水面から立ち上る冷たい霧も、いささか目立たなくなる。池の端の氷もつららだれしていたのが、薄氷となっていく。これが小川となると、氷や雪で覆われていた川底が上からのぞき込むまでもなく、1メートルくらいの深さなら底がよく見える。それでも、まだ時には、水の流れるところに「つらら」が垂れ下がっていた。さすがに水温が低いので、魚はなかなかに数えられるほどに水面に姿を現していない。けれども、深くなった川の淵(ふち)とか川底の岩下には、彼らがきっと潜んでいて、春になるのを待っているはずだ。
「春になれば 氷(すがこ)もとけて、どしょっこだの、ふなっこだの、よるこあけたと おもうべな」(岡本敏明作詞・日本古謡「どじょっこふなっこ」)
「よおーし、今日はええ日じゃけえ、ひっかけづり(あんまづり)をしちゃろう」と考えて、学校から急いで帰ると、さっそく準備にとりかかる。私たち子供が、釣りをするのによく使ったのは、縞模様のある小ぶりのミミズで、「シマミミズ」と呼んでいた。これが、農家の庭の一角に、牛糞が積み上げられた中に住んでいる。その中は適度に湿っており、たぶん発酵熱であったかいので、ミミズにとってはさぞかし心地がよかったのではないか。
これを釣針にさして、餌(えさ)にして川に行き、魚を釣るのだ。魚からすれば、ミミズが水中でくねくねと動くので、何だろうということになり、近づく。すると、食べられるものだとわかり、食べようということになる。ぱくっと口を開けることになると、その餌には釣針が仕掛けられている。そうとは知らずに魚が針が仕込まれている「餌」をここぞと呑み込んだ途端、ぐいと引っ張られるのだから、飛びついた魚はたまらない、という寸法だ。水面から眺めると、食いついた途端に魚がびっくりして、逃れようとして潜ったりして動くので、縦長に水中に立っている釣り糸の途中に結んでいるウキがビックンと沈む。そこで、「よっしゃあ、かかった」となるわけだ。
釣りに行くときには、祖父に声を掛けてから出掛ける。さっそく、祖父からしわがれ声が返ってくる。
「泰司、どこへ行くんなら」
漕ぎ出したペダルを止めて、片脚をつき、振り返ると、祖父の「ニッ」とした笑い顔が目に入る。
「おじいちゃん、ちょっと釣りに行ってくる。友達と一緒じゃ」
「おう、そうか。じゃあ、気をつけて行けえよ」
「うん、わかった。じゃあ、ちょっと行ってくる」
自転車の前のかごと後ろの台に、釣道具や「びく」、餌などを積んで出掛ける。びくとは、入れ口がとっくりのようにくびれていている、竹で編んだ携帯用のかごのことである。自宅の前の坂道をゆっくり下っていると、車輪がゆっくりと駆け出しているとその後ろで、背中越しに祖母の声がした。
「はよお、帰ってこいよ。日が暮れんうちにな」
「うーん、わかっとるう」
今でも、関東平野に至ってからの多摩川や、四国の四万十川とかでは、オイカワとかウグイさえかかるらしい。私の家から近くでは、吉井川支流の加茂川しか大川といえる流れはない。その川は、子供の脚で歩いて2キロメートルばかりのところに流れる。自転車に乗ると、最北端の我が家から裏手に出ると、西へ10分ばかり町道を進んだところにある。ところが、加茂川までは人の往来もほとんどなくて、しかも流れの急な本流に足を入れることになっている。安全に陸釣りできる所を知らない。そもそも、漁業の鑑札を持っていないので、そんなことをしていて見つかったりしたら、大変なことになってしまいかねない。それから、家の直ぐ近くに狐尾池がある。そこに行って釣糸をたれれば、某かの魚が上がることは目に見えていた。しかし、これも、普段はの許可がないかぎり魚をとってはならないと聞いていた。したがって、そこには当然自分で行いをセーブする力が働くのであった。
その小川は、家から自転車で5分くらいの、東の田んぼを流れていた。その小川の名前は、さしあたり「東田圃の小川」とでもしておこう。釣果としては、大して期待できないことはわかっている。それでも釣りに出かけるのは、そこに釣り仲間も来てくれて話ができるし、新しい仲間との出会いもある。例え僅かでも魚が獲れると、それを母に頼んで夕ご飯の食卓に載せてもらうことにもなっている。そんな訳で、どちらかというと、楽しみ半分といったところだったろうか。
私を含めたの子供達が釣りをするのは、そんな小川の一番推進のある、流れが蛇行して、よどみにさしかかる場所であったのではないか。そこに着いたら、自転車の荷台をほどいて、釣具を取り出したり、丈の長い柄のついた小さな網を一つ用意する。釣竿は、自前で毛を削ってこしらえたものである。その竿の先端からは、釣糸を延ばしてある。その糸を通じて浮き、釣針、おもりと結んでいる。おもりには、板状の鉛を折り曲げて糸に密着させて用いていた。そこまでは、家でこしらえて来ている。
餌には、ミミズではなく、うどん粉なんかの練りものでもよいのだが、私のの子供の間では、大方釣りをやるとき餌にはミミズを使っていた。他に、アカムシといって、ボウフラの一種の、真っ赤な体をした小動物を用いる手もある。私の場合は、家に牛糞を積んでいるところにシマミミズ(縞模様のある細いミミズ)がいる。それらを何匹か捕まえて、空のさば缶に牛糞とともに入れて持参していた。その中から一匹を選んで針を通し、外見からはその針が見えないようにしておく。ミミズは生きているのでかわいそうだが、小魚たちの、それが一番の好物となるので仕方がない。
これだけの準備が整うと、釣竿を前へと繰り出して釣り具の先端を、目標の場所へと着水させる。といっても、なにしろ川が小さいので、ゆっくり竿を振りかぶり、まるで弧を描くようにやる訳にはゆかない。岸から1メートルくらのところに、釣糸をそっと置く、吊すといったところか。一度仕掛けを水中に放り込んだら、後は友達のとひっかけないように注意しながら、じっと息を殺して5分から10分くらいは待っている。疲れてくると、しゃがみこんで待つのもよい。
目の前2メートルくらい先には、ひょっとしたらやや大振りな魚も隠れているかも知れない、期待が胸を膨らます。針の先には鉛のおもりが付けられており、糸の具合は安定している。餌の付いた針は自然にそこから少し上のところの水の中に沈んでいて、水面には鮮やかな色をした「浮き」がひょいひょいと浮んでくる。これは、魚が入れ食いをする全長と言って良い。その様子を目を凝らして見る。すると、なんだか普段と違う世界にいるようで、なんとなく楽しい。色は赤、緑、黄色の中でも黄色主体のものを好んだ。浮きは赤と白のカラフルなものに、釣針は、みまさかの東となりの兵庫県に釣針の産地があるとのことだが、やや大きめのものを釣糸に結わえていた。
水深の調節は、まず力を抜いて、おもりを水底に触れさせる。それから、少しずつ持ち上げていく。たかだか1メートルくらいしか推進が何度か腕で竿を引き上げたり、その糸を緩めたりを繰り返すうちに適当な位置にまで調節する。針を落とした場所が近すぎる場合には、いったん釣竿を水の中から引き上げる。もう一回、肩をやや後ろ、斜めに振りかぶり、それから心の中で「よいしょ」と振り下ろす。後は、針をゆっくり前後に動かして間合いをはかっていく。その間、眼は注意深く「うき」の沈み加減を見ているしかない。
技術的には、竿を引くときは、竿を繰り出すときよりもやや早めに引いたらよい。釣り人としては、そうすると、水の中にいる魚は獲物が遠ざかるような動きをするので思わずパクついてくるのでは、と考える訳だ。だが、早春の湖底や川底では魚はまだ深みにひっそりしているのが多いと見えて、なかなか「浮き」にビクン、またビックンとした引きがこない。たまに引きがきて、勇んで竿を引き上げると、アメリカザリガニとか子亀がかかって「残念でした」となる。幸運がやってきて、そこそこの魚が釣れると、「また、やろうな」と言って友達と別れ、自転車に乗って、胸爽やかに家路に向かっものだ。
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