○○20『日本の歴史と日本人』縄文時代(前1万5000~前1000)

2018-05-18 09:57:44 | Weblog

20『自然と人間の歴史・日本篇』縄文時代(前1万5000~前1000)

 ともあれ、この列島で集団生活を始めた人々に続き、後続の集団も、だんだんにやって来た。その時代の特定をめぐっては、旧石器時代もしくは新石器時代という、彼等が使っていたであろう石器からの区割りに加え、日本に特有の区分であるところの「縄文時代」とも言われる。ごく大まかに、縄文時代とは、紀元前1万4500~5000年頃から紀元前1000年までの、1万年以上にわたる期間の社会と人々の暮らしを総称していうのが、現時点での大方の見方のようなのだが。
 この「縄文」という名前が付けられたのは、あのえも言われぬ、縄を回したような図柄がついた土器が1877年に初めて見つかったことによる。モースによる大森貝塚から発掘されたことから「大森文化」といってもおかしくはなかったのだが、その後はこの土器の紋様に着目しての日本史における時代区分として用いられていく。
 なお、現時点での縄文時代に関する有力説によると、土器の形式の変化から見た縄文時代の区分としては、15000年前?~11500年前が草創期。11500年前~7000年前が早期。7000年前~5500年前が前期。5500年前~4500年前が中期。4500年前~3300年前が後期。3300年前~2400年前?が晩期だとされる。
 こうした年代の割り出しには、炭素14による年代測定結果を、木材年輪年代等で「暦年較正」したものに他ならない。それから、最近約1万6000年前の土器が発見されているが、石鏃(矢じり)など新たな石器が出現するのは、最終氷期が終わり温暖・湿潤な気候になってきた1万1700年前までまたなくてはならないため、縄文時代の始まりをどこにおくかをめぐっては、学説が分かれている。ゆえに、これらの定義も確定したものではなく、今後の発掘なりによっては変わっていく可能性が大いにある。
 それらはともかくとして、話を前に進めたよう。いつの頃からか、そして列島になってからも、営営としてこの地に少しずつたどり着いてきたのかも知れない。そうして集積を重ねてきた人々が、日本列島のここかしこで集団生活を営んでいった。
 旧石器時代と交替し、次なる縄文時代に入ってからの人類の足跡の調査は、21世紀に入って上徠よりややテンポをはやめつつ分かり始めている、といって差し支えあるまい。ここでは、それらの中から二例を紹介させていただく。
 2014年7月、北陸新幹線の工事が行われていた現場で、これまでの考古学の歴史を書き換えるかのような、縄文人の骨の発掘があった。富山市の埋蔵物センターが富山県小竹(こだけ)遺跡から発掘された縄文人の化石から、そのルーツを推測しており、こう語られる。
 「富山市の埋蔵文化財センターは26日までに、縄文時代前期の小竹貝塚(同市)で、2008年に出土した女性の頭蓋骨を国内外で見つかったものと比較した結果、縄文人の祖先は東南アジアから中国を北上し北海道経由で本州へ入った「北方系」の集団と、東南アジアから日本列島を北上した「南方系」の集団がいた可能性があると明らかにした。
 小竹貝塚では、既に見つかっている多くの人骨のDNA鑑定から、北方系と南方系の人たちが一緒に暮らしていたことが判明しているが、たどったルートは分かっていなかった。調査した国立科学博物館の溝口優司名誉研究員は「日本人のルーツ解明が一歩進んだ」と話している。(中略)
 溝口名誉研究員によると、富山の女性は歯のすり減り具合などから40~60代とみられ、当時としてはかなり高齢。この頭蓋骨を東北、関東、東海、山陽の各地方で出土した骨と比べると、パーツの形などが東北で集団出土した縄文時代中期以降の人骨とよく似ていた。(中略)
 東北の人骨は、北海道で出土したものや、中国河南省の安陽市で見つかった青銅器時代の人骨、東南アジアで出土した新石器時代から鉄器時代の人骨と特徴が類似しているため、北方系の流れとみられるという。
 一方、青森県で見つかった縄文時代前期の女性の頭蓋骨は、山陽で出土した女性のものと類似。岡山県で見つかった同時期の男性の人骨は、東南アジアとのつながりはうかがえるが、安陽市で見つかったものとは全く似ておらず、南方系と判断した。
(「縄文人祖先は南と北から? 富山などで出土の人骨比較」(2014年7月26日付けより引用)

(続く)

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♦️47『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(ハムラビ法典)

2018-05-18 08:41:17 | Weblog

47『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(ハムラビ法典)

 この第6代ハンムラビ王の治世(紀元前1792年頃~同1750年頃)において、ハンムラビ法典が編纂された。この法典を刻んだ石碑が発掘されており、これが日本の世田谷美術館の「メソポタミア文明展」にやって来た時、設置の台の外側に立って、上半身を前に乗り出すようにして見させてもらった。しかし、文字の形までは識別がかなわなかったのが残念。閃緑岩のやや円筒を模したような、緩い曲面に刻まれている。この碑の近さはゆうに2メートルはあったろうか。
 文字のさらに上、石碑の一番上部には、この法典の由来が浮き彫りで表現されている。右側に神、左側に王がいるではないか。王は、椅子に鎮座しているところであろうか。王と向かい合っている神の名は「シャマシュ神」といい、髭を蓄え、神の象徴とされる角(つの)を頭の上部に帯びている。長い腕をした上、その方からは何本もの太陽光線を発していて、貫禄は充分。この石碑は、かつてはシャマシュ神の神殿に建てられていたものと推測されている。
 この現存のハムラビ法典だが、1901年、イランのスーサで発見されたという。本文は282条に前文、後文が付けられている。その最大の特徴は、いわゆる「同態復讐法」に貫かれた、その刑罰の厳しさであろう。その中から、幾つか紹介しよう。
 「第196条、もし人が人の目をつぶしたときは、彼の目をつぶす。
第197条、もし人が人の骨を折ったときは、彼の骨を折る。
第198条、もし半自由民の目をつぶし、あるいは、人の奴隷の骨を折ったときは、銀1マナ(約490グラム)を支払う。
第199条、もし奴隷の目をつぶし、あるいは、人の奴隷の骨を折ったときは、その(銀1マナの)半分を支払う。
第200条、もし人が彼と同格の人の歯を折ったときは、彼の歯を折る。」(富村傳(とみむらでん)「文明のあけぼのー新書西洋史①」講談社現代新書、1973)
 珍しいところでは、チグリスとユーフラテスの両河が引き起こす洪水についても、その損害への規定を設けている。
 「第45条、もし人が地代をとって畑を耕作人に貸したあと、畑に洪水が氾濫したり、津波がおそっても、損害は耕作人の負担となる。」(同)
 ほかにも、結婚も契約扱いであったのか、証書を交わさなければ正式に認めれなかったという。

(続く)

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♦️40『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、バビロニア王朝)

2018-05-18 08:39:53 | Weblog

40『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、バビロニア王朝)

 さらに、このメソポタミアの世界は、バビロン第1王朝(紀元前1894年頃~前1595年頃)の時代に入っていく。それまでの初期王朝時代の週末までにスメル文化がメソポタミアのほぼ全域に及んでいた。だがそれでも、その支配の色に塗り尽くせない場所があった。この空白を埋めるべく、新たに歴史の表舞台に登場する勢力について、小川氏(前出)はこういわれる。
 「さらにその後に、同じく砂漠から入った第二のセムの波として、カナアン人がより大規模な形で海岸まで入植し、その地の文明文明の基本的性格を確立する。
 アモリ人は同時に、メソポタミアでも定住運動を開始した。ウル第三王朝後期の王たちはユーフラテス川流域に史上最初の長城を建設して彼らの侵入を防ごうとしていた。しかし、前2006年にこの王朝が亡びると、アラム人はエラム人を追い払い、イシンとラルサに定着し、それぞれ王朝をつくった。(中略)
 やや遅れて、アモリ人の別の一派が定着し、バビロンに王朝をつくった。そして、メソポタミア中流域以南の地は、アモリ人による三王朝並立の時代を迎えたが、バビロン王朝第6代目の王ハンムラビ(前1792~1750)に至って、彼の下に前メソポタミアが統一された。このようにして出来た、バビロンを中心とするアモリ人の国家をバビロニア帝国という。」(小川前掲書)
 これにあるように、バビロン第1王朝(前1894~同1600ごろ)の初代スムアブムからは、彼らは着々と勢力を拡大してきた。それが、ハムラビ王の時代に至って、東方山岳地からこの地に侵入してきていたエラム人を種メールから一掃するとともに、当時スパルトゥと呼ばれていたアッシリアの地をも制圧し、メソポタミアの統一を成しとげたのである。

(続く)

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