◻️232の9『岡山の今昔』岡山人(20世紀、佐藤清明)

2019-09-25 21:21:49 | Weblog
232の9『岡山の今昔』岡山人(20世紀、佐藤清明)
 
 佐藤清明(1905~1998)は、博物学者。里庄町の生まれ。
 金光中学校(現在の金光学園高校)に入る。卒業後は、はやくも植物・動物学者への道を歩んでいく。やがての1931年(昭和6年)からは、清心女学校・清心女子高校にて理科や生物を教える。植物学を中心に調査・研究に励み、牧野富太郎、南方熊楠らとも親交があった。特に、牧野からは色々教えてもらう間柄であったらしい。
 そしての戦後、佐藤は、実に1987年(昭和62年)に至るまでを同校で教え続ける。この間、同校「紀要」などに論文を相次いで発表していく。いわく、「伯耆大山の昆虫相」(1968)や「岡山に自生する固有植物」(1969)、「岡山県における固有動物」(1971)など、並々ならぬ努力であったようだ。 
 それらの仕事の傍らであったのかどうか、日本ではじめての妖怪事典「現行全国妖怪辞典」を出版する。
 
 没後の21世紀に入っては、新たな事実が判明したという。米スタンフォード大のヒューバート・スケンク博士との間に交流があった。そのことを踏まえての特別陳列が、佐藤清明資料保存会と里庄町立図書館、同博物館の共同で企画されるとのこと。備前地域の貝の標本を送ってほしいというスケンク博士からの手紙に応じた佐藤は、彼から返礼品として米西海岸の貝の標本の寄贈を受けた、それらが陳列されるとのこと。

(続く)

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◻️157『岡山の今昔』岡山人(12世紀、那須与一)

2019-09-25 10:05:00 | Weblog
157『岡山の今昔』岡山人(12世紀、那須与一)

 「平家物語」の「屋島の戦い」(1185年(元暦2年))のところでは、戦いの最中、さらに切迫したかのような主従のやりとりが、こう記されている。
 「さりながら扇あふぎをば、射させらるべうもや候さふらふらん」と申まうしければ、判官、「御方に射つべき仁じんは、誰たれかある」と問ひたまへば、「手練てだれども多おほう候ふ中に、下野しもづけの国の住人ぢうにん、那須なすの太郎たらう資隆すけたかが子に、与一宗隆むねたかこそ、小兵こひやうでは候へども、手は利いて候ふ」と申す。判官、「証拠があるか」。
 「さん候ざふらふ。翔け鳥などを争うて、三みつに二つは、必ず射落とし候ふ」と申しければ、判官、「さらば、与一呼べ」とて召されけり。与一その頃は、いまだ二十ばかんの男をのこなり。褐かちに、赤地の錦をもつて、大領おほくび端袖はたそで色へたる直垂ひたたれに、蓬威もよぎをどしの鎧着て、足白あしじろの太刀を履き、二十じふ四差いたる切斑きりふの矢負ひ、薄切斑に、鷹の羽割り合はせて、矧はひだりける、ぬた目の鏑かぶらをぞ差し添へたる。重籐しげどうの弓脇に挟み、兜をば脱いで高紐たかひもにかけ、判官の御前まへに畏まる。」

 これにある那須与一(生年は1166~1169の間か、?)なる人物は、「吾妻鏡」などの史料には見えない。その代わり、軍記物である「平家物語」や「源平盛衰記」といった伝承織り交ぜての軍記物に、英雄として華々しくも登場する。
 ついては、現在までに実在が立証できていない人には違いないものの、その類いの武士が何らかの形で武勲を立てた可能性は相当程度あるのではないだろうか。その誕生地は、一説ながら、当時の那須氏の居城神田城(現在の栃木県那須郡那珂川町)と推測される。

 かかる伝承でいうと、彼は、治承・寿永の乱において、源頼朝方に加わる。源義経に従軍しての屋島の戦いにおいて、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落としたという。そのことで、「にっちもさっちもゆかなく」なっていた戦局にどのような変化があったのかは、わからない。
 ともあれ、それらの軍功を挙げたことにより、与一は後年、源頼朝より丹波・信濃など5カ国(丹後国五賀荘・若狭国東宮荘・武蔵国太田荘・信濃国角豆荘・備中国後月郡荏原荘)の地頭職を賜った旨。
 とはいえ、この点の真偽につき、西国での地頭の布置が大々的に行われるのは、承久の変の後、幕府側が朝廷から多くの土地を奪ってのことであった。そのことを考えると、同軍記の書きぶりにはかなりの誇張があるのかもしれない。

(続く)

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