♦️621『自然と人間の歴史・世界篇』キューバ(1551~)

2018-11-15 22:26:28 | Weblog

621『自然と人間の歴史・世界篇』キューバ(1551~)

 キューバは、1511年にスペイン領となる。1519年には、サンディアゴが植民地行政の中心となる。1552年には、スペイン・アメリカ間の航路がつき、ハバナが植民地行政の中心となる。1550年代からは、良質のタバコがプランテーションで栽培されるようになり、スペインに向け輸出されるようになった。

 ハバナは、新大陸と西洋とをつなぐ貿易で栄えていく。17世紀になると、砂糖の栽培がはじまる。それと、奴隷の貿易で繁盛していく。その砂糖産業が主要産業となるのは、七年戦争のときイギリス軍がこの島を占領してからのことである。

 

(続く)

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♦️616の1『自然と人間の歴史・世界篇』メキシコ(1519~1876)

2018-11-15 21:52:02 | Weblog

616の1『自然と人間の歴史・世界篇』メキシコ(1519~1876)

 近代メキシコの歴史というのは、大まかに先スペイン時代、スペイン占領の時代、それに独立以降の時代に分けられよう。

 1519年から1521年にかけて、スペインのエルナン・コルテスが率いる軍隊がアステカ王国を征服した。武器の優劣のほか、勢力圏内の一部の部族がスペイン軍に寝返ったことで勝敗が決した。1528年には、司法行政庁がメキシコ市に設置された。ついで1535年には、新大陸スペイン領を二分して治めた副王朝の一つが同市に設置された。スペインは、原住民労働力を徴発して植民地経営に当った。

 1810年9月16日、「ドローレスの叫び」で、スペインからの独立運動が始まる。今日「独立の父」と呼ばれるイダルゴ神父が処刑されると、その事業はモレロスらによって継承されていく。1813年には、ルパンシンゴの議会において独立宣言をなす。しかし、国家統治の実効性を伴わず。1821年、ようやく独立にこぎつける。

独立後は、短期間の第一次帝政の後、1824年に憲法が制定される。連邦制を敷いた。1829年の対スペイン戦争では、サンタ・アナが国民的英雄となった。

1936年には、北部のテキサスがメキシコから分離独立し、その後アメリカに吸収される。1846~1848年のアメリカとの戦争に敗北する。それまでの領土の半分以上を失い、ほぼ現在の範囲に狭まった。1858~1860年には、保守派と自由主義派との間で内戦が勃発する。1861年に自由主義派の勝利となったものの、財政窮乏から利子支払い停止を宣言する。そのため、フランス色の第二次帝政(1864~67)が発足する。

その後、自由主義派勢力はファレス大統領を先頭に戦い、1867年にはフランス駐留軍を破る。「復興共和国」の下で経済建設が進み、1876年に至るまでメキシコの近代化を目指した諸改革が進む。

(続く)


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♦️619『自然と人間の歴史・世界篇』(ベネズエラ、1960年代~)

2018-11-15 08:49:12 | Weblog

619『自然と人間の歴史・世界篇』(ベネズエラ、1960年代~)

 ベネズエラでは、1945年にクーデターが起こる。若手将校のグループUPM(軍人愛国同盟)がAD(民主行動党)を巻き込んだものだ。臨時政府が樹立され、ベタンクールが臨時の大統領に。石油を中心に、政府の権益を拡大。また開発公社を設立し、工業化などをめざす。1945年に農地改革が行われたものの、「受益者は主にAD系の農民組織にかぎられていた」(増田義郎編「ラテン・アメリカ史2」山川出版社、2000)という。

1947年憲法による総選挙が実施されると、ADのロムロ・ガイェゴスが大統領になる。

 ところが、1948年には軍部がクーデターを起こす。URD(民主共和連合)の総選挙での勝利を覆してぺレス・ヒメネスが政権を握り、1947年憲法を停止する。これに対し反独裁愛国戦線が1957年6月に成立し、政権に反対する。1958年には、選挙の実施などを求めゼネストが起こり、これに軍部が呼応して政権を倒した。

 ベネズエラの状況は、21世紀に入ってからは大きな変化が進行中だといってよいだろう。

 2013年3月には、チャベス大統領が死去し、カリスマ的指導者がいなくなったことで政治の流動化が始まる。4月の大統領選挙で、後継指名を受けたマドゥロが当選を果たす。

 2015年3月、アメリカのオバマ政権が経済制裁を発動する。この措置により、ベネズエラ政府関係者

7人のアメリカ国内の資産が凍結されるとともに、アメリカの金融機関との取引が止められる。

 2017年4月には、反政府デモが起こる。7月、政府が制憲議会選挙を強行する。野党勢力はこれをボイコットし、結果的に大統領派が議席をほぼ独占するにいたる。2018年1月、選出された制憲議会が大統領選挙の前倒しを発表する。

 2月には、原油を担保とする仮想通貨「トロ」を発行する。3月、政府は、記録破りの物価上昇に対処するべく、6月4日付けで通貨の単位を1000分の1に切り下げるデノミネーションを実施すると発表する。

 5月、マドゥロ大統領が再選を果たす。アメリカのトランプ政権が追加制裁を発表する。その内容は、ベネズエラ政府や政府系企業のアメリカ経由での資金調達を禁じるものだ。同月、ベネズエラ政府は予定のデノミネーションを60日間延期し、8月4日付けで実施すると発表する。その際、切り下げ幅を10万分の1に拡大すると発表する。そして迎えた8月20日、政府はデノミネーションを強行する。

(続く)

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♦️32の1『自然と人間の歴史・世界篇』現生人類へ(5万年前~、ホモサピエンスの2回目の出アフリカ)

2018-11-14 09:43:47 | Weblog

32の1『自然と人間の歴史・世界篇』現生人類へ(5万年前~、ホモサピエンスの2回目の出アフリカ)

 それが約5万年前になると、寒く乾燥した大地にいることに危機感を抱いたホモ・サピエンスたちが、かなりの人数で「出アフリカ」を敢行するに至る。ここに「かなりの人数」とは、約150人位を一単位と考えると、それが運命共同体として最適の規模だという説が出されている。

 それからは、西アジアに出て数を増やし、それからユーラシア大陸の東西へ拡散を始めたものと思われる。南アジアからは海を渡ってオセアニアへの移住が起こる。
 この集団は、4万5000年前頃に同大陸に到達した。一説によると、日本人の祖先も3万8000年前に初めて日本列島に到達した。さらにおよそ2万1000年前からおよそ1万4000年前にかけて地球の寒冷化があった。こうなると、海面が低下し、その分陸地が干上がってくる。

 海水面の後退は、大きいところでは現在の水面から百メートルにもなっていたのではないかとも考えられている。ユーラシア大陸を東進したホモ・サピエンスの集団は、その寒冷化で陸地になっているベーリング海峡を渡り、北アメリカ大陸に、そして約1万年前には南アメリカ大陸にも渡っていく。こうした移住の結果、人類は地球上に広く行き渡り、その各地で多様な歩みを大地に刻んでいくのであった。


 ここに、「ホモ・サピエンス」(2009年の定義)というのは、「ホモ」がラテン語で「人」、サピエンスは「賢い」という、したがって「賢い人」という意味である。これは、原始的亜種である「ホモ・サピエンス・イダルトゥ(ヘルト人)」と、基亜種としての「ホモ・サピエンス・サピエンス(現生人類)」を総称していう。このうちホモ・サピエンス・イダルトゥの化石は、約19万5000年前のエチオピアはミドルアワシュ峡谷の中から発見された。彼らの脳容量は1400立方センチの大きさであった。発見された地層は更新世末期のリス氷期中、考古学上の区分でいうと中期旧石器時代中期頃に生きた人びとの化石だと推測されることから、これをとって、私たち原生人類の直接の祖先は、少なくともおよそ20万年前に出現したというのが通説となっている。彼らは通称「ヘルト人」と呼ばれる。
 過去から現在へ、その流れの中で地球上のあらゆる生物は、環境変化に適応すべく進化を遂げてきた。現生人類の起源を巡っては、国際的な捉え方の外、「猿人」、「原人」のみならず、「旧人」と「新人」などの日本独特の区分けも重なっていて、ややこしい。そのことを覗わせる最初の関門こそ、進化のシナリオの中で「原人」とは何であり、どのような位置を占めるのか、という命題であった。


 そもそも19世紀に、人類学者によって初の人類とおぼしき化石が欧州で発掘された。それ以降、アフリカにまで発掘を広げて、地道な発掘作業が続いた。20世紀になると、生物学の発展により、遺伝学的な探索が徐々に可能となっていく。
 さて、化石となって発見された現世人類であるホモ・サピエンス、その代表格といえるのが「クロマニョン人」だ。この種の発見は、1868年、フランスのドルトーニュ県にあるクロマニョンの岩陰から、鉄道工事中の工夫が人骨5体(頭骨を含む)を発見したのを嚆矢(こうし)とする。その岩陰は、あのラスコーの壁画(約2万年前)で知られる洞窟から約10キロメートルの場所にある。
 その後、ヨーロッパ各地の洪積世地層から同様の化石人骨が発見され、現生人類に属する化石人類として「ホモ・サピエンス)」と言われるようになった。ともあれ、かれらこそは、私たちの直接の祖先である、ホモ・サピエンスにほかならないことがわかった。 

 彼らがこの地上に現れ、生きた時代としては、約700万年もの人類の全進化史の中ではごく最近にあたる一時期、約4万5000年前から約1万5000年前、石器年代区分でいうと、後期旧石器時代)をヨーロッパ大陸の一角に生きた地域的集団であると推定されている頃だ。人々は、石や動物の角などを利用し、さまざまなやりの先や、弓矢の鏃(やじり)、ナイフなどを製作、毛皮の加工もしていた痕跡が残っている。

(続く)

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♦️32の2『自然と人間の歴史・世界篇』現生人類へ(5万年前~、ホモサピエンスの2回目の出アフリカ、壁画など)

2018-11-14 09:18:09 | Weblog

32の2『自然と人間の歴史・世界篇』現生人類へ(5万年前~、ホモサピエンスの2回目の出アフリカ、壁画など)

 これら人体骨格の発掘に関連して、旧石器時代のクロマニョン人が活動していた範囲で広く洞穴絵画が残されている。ところで興味深いのは、かれらの骨の発見には、洞窟の壁画の発見が絡んでいたことだ。というのは、1879年、スペインのアルタミラ洞窟で、この地の領主であり法律家でありアマチュアの考古学者でもあるマルセリーノ・デ・サウトゥオラ侯爵の12歳の娘マリアによって発見された。

 同侯爵による発表の当時は世間に見向きもされなかった。後にこの壁画は、先史ヨーロッパ時代の区分でソリュトレ期に属する約1万8500年前頃のものと、同マドレーヌ期前期頃の約1万6500年前~1万4000年前頃のものだと分かった。壁画が描かれた後に落盤があったらしく、外界と遮蔽され、そのことが幸いして画が失われずに残ったのだという。その洞窟には、旧石器時代末期に描かれた野牛、イノシシ、馬、トナカイなどの動物が、狩りの対象として描かれていた。
 続いて1940年、今度はフランスの西南部ドルドーニュ県、ヴェゼール渓谷のモンティニャック村にあるラスコー洞窟近くで遊んでいた子供たちによって、これまた偶然に発見された。アルタミラ洞窟に勝るとも劣らない、すばらしい彩色のものであった。こちらの狩りを描いた壁画は、光がほとんど届かない洞窟の奥深くにあったことから、保存状態が極めて良かったとされる。これらの壁画がなぜ描かれたかについて、どんな思いを込めて描いていたのかについては、古代の呪供師(きょうじゅつし)が洞窟にこもって儀式を行っていたのではないかとか(クリストファー・ロイド著・野中香方子訳「137億年の物語ー宇宙が始まってから今日までの全歴史」文藝春秋、2012)、どのような状況の下でそれらの獲物を捕らえたかを記憶にとどめようとしたとか、さまざまに推測されているようだ。

 さらにもう一つ、人類のその後の拡散を知らせる壁画の中から紹介しておこう。セラ・ダ・カピバラ国立公園はブラジル北東部ピアウイ州にある公園だ。アメリカ大陸の人類史を書き換えた、南米最古の人類遺跡があり、1991年世界遺産に認定された。園内には約2億5千年前に形成された渓谷があり、岩場や洞窟が豊富だ。ここで、6万年前にさかのぼるざっと3万点の線刻岩絵群と洞窟壁画が見つかったという。

 ここでの壁面の内容は、儀礼、舞踊、狩猟など当時の人々の生活、そしてグリプトドンや巨大アルマジロのような氷河期以前に絶滅したとされる動物などが、赤、白、黄それに黒といった顔料で描かれている。他にも、陶器製の道具もが発掘されており、旧石器時代に南アメリカにいた先住民の存在を物語っている。


(続く)

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♦️16『世界と人間の歴史・世界篇』その後の全球凍結と生物たち(約22億年~約5億4200万年前)

2018-11-13 22:03:18 | Weblog

16『世界と人間の歴史・世界篇』その後の全球凍結と生物たち(約22億年~約5億4200万年前)

 約15億年前に、生物たちにとってさらなる転機が訪れたのではないか。約25億年前からカンブリア紀の前までが「原生代」と呼ばれる。彼らの中で、有性生殖をする種が現れたのだ。生物の生存の変化には地球環境の変化も重要で、十数億年前には、それまでの複数の大陸が集まってゴンドワナ大陸となり、古生代に入ると、その他の大陸も加えて超大陸パンゲアが形づくられたと考えられている。

ドイツの気象学者A・ウェーゲナーが、大陸移動説として提唱し、後にプレートテクニクス理論と結びついて、この説の正しさが認められた。それからも時を重ね、約8~6億年前の全球凍結の頃にさしかかっていく。その頃の海には、酸素が一杯に溶ける迄になっていたのではないか。ちなみに、古生代以降は、顕世代としてまとめて語られる。
 さらに時間が経過してゆき、およそ7億年前に再び、この地球に全球凍結があったと推定されており、スターチアン氷河時代と呼ばれる。
 その後、およそ6億5000万年前にもスノーボード・アイス(全球凍結)があったとされ、こちらはマリノアン氷河時代と呼ばれる(全球凍結に至らない規模での氷河時代もあることに留意されたい)。現代では、この2度目のスノーボード・アイスの直前あたり、約5億7000年前あたりで、多細胞生物が多種多様な形で出現したことが分かっている。

具体的には、オーストラリア、アデレートの北方にある、エディアカラ丘陵において、実に様々な形をした軟体性の生物化石が大量に出土している。多細胞ながら、固い殻や骨格というものがなく、軟体部のみからなっていたので、概して平たいものが多かったようだ。大きなものは1メートルを超える。
 これらは、1946年にオーストラリアの地質学者レッグ・スプリッグにより発見された。そのため、「エディアカラ生物群」と呼ばれる。そこでは、数え切れないほどの「エディアカラ化石群」の名で知られる化石が折り重なって、地層を形成していた。

それからは、オーストラリア以外でも、ロシアのホワイトシー、カナダのニューファンドランド島などでも同様の化石が発見されている。このため、今日ではエディアカラ生(動)物群は世界に広く分布していたこととされている。殻や骨格を持たないので、化石としては遺りにくいに違いない。

そんな中でも、グロスモーン国立公園を擁するカナダのニューファンドランド島のそれは、噴火による火山灰が彼らの棲息していた海底に積もっていったため、化石が程よく保存されたものと見える。原生代末の最後のスノーボード・アイスが終わって直後の約5億7000万年前頃の地層から見つかっている。

そのポイントだが、この島のアバロン半島南端にある、全長約17キロメートルもある断崖だ。ここに先カンブリア紀末期にエディアカラ生物群が生息していた。そもそもこの地域では、大陸の移動の始まった約6億年前に北アメリカ大陸とユーラシア大陸のヨーロッパ部分が分離し始め、その間隙を通って地殻下部のマントルが上昇して間を埋めかけていた。

やがて、今度は両大陸が押し合うようになる。すると、大西洋プレートが北アメリカ大陸のカナダ側へと沈み込む過程で、その一部がめくれ上がり、地下深くのマントルごと地上に飛び出した。言い換えると、海洋プレートとマントルの一部が地上へと押し上げられた。

やがてプレート表面が冷え、風化ないし降雪や雨に晒されていると、地表にマントルそのものが露出して現在の地形となった。

こうして、かつては海の底にあったエディアカラの化石群が私たちの眼前に現れた、と考えられている。ともあれ、これらで出土した化石は、約38億年前の最初の単細胞生物から、初の多細胞生物まで約32億年をかけて、ようやくここまでたどり着いた訳だ。
 いずれの化石も、輪郭がぼやけていて、跡という形だけが残るものが多く、軟体質の生物が多かったことを予想させる。もっとも、これらの化石が生物として生きていた時、ディアカラ生物群を初の多細胞生物ではないと考える説もあって、学説はいまだどれとも定まっていない。一つは、エディアカラ生物群以前に、原生代中期に小型の多細胞生物がすでに誕生していたという。もう一つは、エディアカラ動物群は巨大な単細胞生物だという。
 彼ら光合成生物のさらなる大量出現は、それまでの有機物形成とその海底への堆積のスピードを早めことであろう。この過程は、酸素の放出過程でもあった筈だ。つまり、プランクトンなど多細胞生物の大量出現により、有機物の海底への沈降量が飛躍的に増えていき、二酸化炭素(CO2)固定効率の上がったのではないかと考えるのである。
 ところが、このエディアカラ生物群は、古生代のカンブリア紀直前のヴェンド紀とカンブリア紀の境界(V/C boundary)の時期に大量に死んでいく。これを「エディアカラ大絶滅」といい、そのなかでわずかに生き残ったものたちが、その後の「カンブリアの生物大爆発」へとつながっていくのである。

(続く)

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♦️631『自然と人間の歴史・世界篇』ハイチ(1960年代~)

2018-11-13 12:01:17 | Weblog

631『自然と人間の歴史・世界篇』ハイチ(1960年代~)

 ハイチは、1492年にコロンブス船団のイスパニョーラ島発見により西洋に知られる。1697年にフランス領となる。1803年5月には、イギリスがナポレオンのフランスに宣戦布告し、11月にはフランス軍は撤退を余儀なくされた。1804年1月には、フランスから独立する。ハイチ共和国の名は、「山の多い土地」を意味するアラワク語をとったという(増田義郎・山田睦夫編「ラテン・アメリカ史1」山川出版社、1999)。

 「さあ、自前の国をつくろう」ということであったろうが、新たに黒人とムラート(混血)との間で主導権をめぐる対立が起こる。1806年、黒人将軍アンリ・クリストフが初代皇帝を殺し、1811年に国土の北部を基盤として王位に就く。1820年、その黒人王国が消滅する。

 1915~1934年には、米国による軍事占領が行われる。1957年9月には、デュバリエ政権が誕生する。その彼は、1964年には終身大統領となる。1971年4月、その息子のデュバリエが大統領に就任する。  

 1987年4月には、憲法が発布される。1991年2月にアリスティッド政権成立。しかし、1991年9月軍事クーデターが起こり、アリスティッド大統領は国外に脱出する。  

 1993年6月には、国連安保理が制裁を行う。8月末に一時停止となる。1993年7月には、アリスティッド大統領の帰国に向け合意が成立する。1994年5月にいたり国連安保理が禁輸制裁を強化する。

 そして迎えた2010年1月12日、首都ポルトープランスから南西に25キロメートルの地点を震源として、震源の深さは約10キロメートルのところで、マグニチュード7.0の大地震が発生した。この地震により、約21万7300人が死亡した。負傷者にいたっては約30人に上ったといわれる。祖被災者たるや、国民全体の5分の1にあたる約210万人に及んだという。そんな中で、特徴的であったのは、少なくとも17万戸以上の家屋が損壊したことにあり、それらの多くは貧民層の住居であった。つまり、彼らの粗末な建物には満足な耐震が施されていなかったのだ。一方、富裕層の住居のほとんどは倒壊を免れたという。

(続く)

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♦️628『自然と人間の歴史・世界篇』ガイアナ協同共和国(1960年代~)

2018-11-12 22:21:34 | Weblog

628『自然と人間の歴史・世界篇』ガイアナ協同共和国(1960年代~) 

 ガイアナ共和国は、南アメリカ大陸の北東部に位置する。

 1621年には、オランダ西インド会社設立とともに同社の支配下に入る。18814年には、イギリスの統治下におかれる。1831年、イギリス領ガイアナとなる。

 やがて独立運動が高まってくる。1953年、イギリスはガイアナの社会主義化を恐れ、軍隊を派遣する。そして武力で威圧して、憲法を停止させた。1962年には、黒人主体の反乱がおこる。

 1966年にイギリス連邦内の自治領としてガイアナは独立をはたす。1970年に共和制へ移行する。1980年になってようやく新憲法が公布される。バーナムが大統領に就任し、終身大統領制をとる。協同組合制度を基礎に社会主義を展望していく。

(続く)

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♦️625『自然と人間の歴史・世界篇』パラグアイ(1960年代~)

2018-11-12 22:03:18 | Weblog

625『自然と人間の歴史・世界篇』パラグアイ(1960年代~) 

 パラグアイは、南アメリカ大陸の中央南部に位置する。

 1811年には、スペインから独立をはたす。1864~1870年の三国戦争(パラグアイ戦争)は、対ブラジル・アルゼンチン・ウルグアイ連合軍の戦争であった。しかし、この戦争でパラグアイは敗北する。領土の侵害に対し多くの国民が立ち上がり戦ったものの、侵略に抗しえなかった。ためにパラグアイの人口は激減した。

 1932~1935年、今度はチャコ戦争(対ボリビア)に勝利。1954年には、ストロエスネル将軍がクーデターにより政権を掌握する。以後35年間にわたり独裁政権が継続する。1989年2月、クーデターによりロドリゲス将軍が政権を掌握する。1989年5月には、ロドリゲス将軍が大統領につく。1993年8月、ワスモシ大統領が就任し、文民政権となる。1998年8月、クーバス大統領就任、続いての1999年3月ゴンサレス大統領に就く。

(続く)

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♦️627『自然と人間の歴史・世界篇』エクアドル(1960年代~)

2018-11-12 21:26:53 | Weblog

627『自然と人間の歴史・世界篇』エクアドル(1960年代~) 

   エクアドルは、南アメリカ大陸北部の太平洋に面したところにある。

   1822年、大コロンビアとしてスペインより独立をはたす。1830年には、大コロンビアより分離独立する。

 1920年代になると、一時産品価格の低迷の中でカカオの国際市場価格が低落し、輸出額が減少した。地主や関連のブルジョアジーの経済基盤が弱体化していく。このため、労働者・庶民に労働・生活条件へのしわ寄せがなされていく。1922年10月には、賃上げとゼネスト労働時間短縮など待遇改善を求めるゼネストが宣言された。自由党政権は、これを弾圧した。1925年7月には、民衆の不満と結びついた形でクーデターが起こり、政権は崩壊した、これを「七月革命」という。

 この運動を指導したインドロ・アヨラ政権が(1931年まで)の下で数々の進歩的な改革が進められていく。経済面では、財政中央銀行の設立や財政再建の試みなどがあった。しかし、カカオとコーヒーの栽培と輸出によっていたため、1929年の世界恐慌で輸出が痛手を受け、財政がひっ迫する中、同政権は右からのクーデターにより崩壊した。

 1946年制定の憲法が改訂され、文民の大統領が定められた。

(続く)

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♦️634『自然と人間の歴史・世界篇』セントルシア(1960年代~)

2018-11-12 21:11:07 | Weblog

634『自然と人間の歴史・世界篇』セントルシア(1960年代~) 

 セントルシアは、1650年、フランスが入ってくる。カリブと平和協定をむすぶ。1814年、パリ条約でイギリス植民地とされる。1958年から1962年にかけて、イギリス領西インド諸島連邦に加盟する。1967年には、内政自治権を得てイギリス自治領となる。他のイギリス領の島とともに西インド連合州を形成。1974年には、カリブ共同市場に加盟。1978年12月のイギリス議会の承認を得て、1979年2月に独立をはたす。

(続く)

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♦️633『自然と人間の歴史・世界篇』ドミニカ共和国(1960年代~)

2018-11-12 20:27:49 | Weblog

633『自然と人間の歴史・世界篇』ドミニカ共和国(1960年代~) 

 ドミニカ共和国は、カリブ海に位置する。この海に浮かぶアンティル諸島の中央にあるイスパニオ島の東部3分の2を占める。

 1492年、コロンブスによる船団がイスパニオ島を見つけた。1697年、同島の西側がフランスとなる。リスウィク平和条約による。1795年、フランスとスペインの仏西戦争によりフランス領に組み入れられる。1804年には、ハイチとしてフランスより独立する。1814年のパリ条約で東側はスペイン領となる。

 1822年、ハイチ軍による占領があり、1844年まで続く。1844年、ハイチ人を追放して彼らの支配からから解放され、ドミニカ共和国を建設する。1861~1865年、スペインに合併される。ラテン・アメリカを再びものにしようとのスペインの企てであったのだか、1965年に民衆の武装蜂起がおこって、スペイン兵は撃退され、再び共和国体制へと戻る。1916~1924年には、米国による軍事占領があった。1930~1961年、トルヒーリョ将軍による独裁が続く。1961年、バラゲールを首班とする国家評議会が成立するも、その後クーデターで軍事評議会が政権を担う。

 1963年、総選挙を経てボッシュが大統領に就任する。1995年には、政府軍と反政府軍の武力衝突が起こる。1966年~1974年、バラゲール大統領が政権を担う。

(続く)

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♦️640『自然と人間の歴史・世界篇』ドミニカ国(1960年代~)

2018-11-12 19:19:21 | Weblog

640『自然と人間の歴史・世界篇』ドミニカ国(1960年代~) 

 

 ドミニカ国は、カリブ海のドミニカ島にある。この島だが、小アンティル諸島に属するウィンドワード諸島北端に位置する。島では、火山が活動している。滝や温泉湖があり、植生も豊かだ。

 1493年、コロンブスの船団により西洋の知るところとなる。1805年、イギリス植民地に組み込まれる。1958年から1962年にかけてイギリス領西インド諸島連邦に加盟する。1967年には、イギリス自治領となる。1978年にようやく、イギリスからの独立をはたす。

(続く)

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♦️626『自然と人間の歴史・世界篇』スリナム(1960年代~)

2018-11-12 09:06:00 | Weblog

626『自然と人間の歴史・世界篇』スリナム(1960年代~) 

   スリナム共和国は、南アメリカ大陸の北東部に位置する。スリナムという名前は、土着語の「岩の多い川」にちなむという。なぜかというと、「9~12月にわずかな乾季があるものの、年間降水量が多いため河川の水量は豊富で急流が随所にある」(平凡社刊行の「ラテン・アメリカを知る事典」2004改訂)のだという。

 15世紀末スペインにより西洋に知られる。1650年にはイギリス植民地に。イギリスは、この地にタバコ栽培に始まって、コーヒーやカカオの栽培にも手掛けていく。1667年のイギリスとオランダの戦争(第二次英蘭戦争)により、今度はオランダ植民地になる。1815年の列強が集ってのパリ条約で最終的にオランダ領となる。1863年の本国での奴隷制廃止により彼らのプランテーションは打撃を受けた。とはいえ、インドやジャワからの移民を受け入れたりして、労働力を補っていった。

 20世紀に入ってからの1948年、オランダ修正憲法によりオランダ植民地から脱却し、オランダ領西インド諸島とともに対等の「海外領土」ということになった。1954年、オランダ自治領に組み入れられる。つまり、軍事と外交を除き自分で動けるようになったという。

 1975年11月に、ようやくにしてオランダから独立をはたす。

 

(続く)

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□149『岡山の今昔』瀬戸内の幸多し(ばら寿司、ままかり)

2018-11-11 22:00:49 | Weblog

149『岡山(美作・備前・備中)の今昔』瀬戸内の幸多し(ばら寿司、ままかり)

 そんなこんなで、このあたりの海辺は、行き交う人もかなりであったろうが、土地の人々の生活の場でもあった、このあたりに住む人々は、目の前の海で穫れた具材を、昔からいろいろな郷土料理に取り込んできた。新幹線の岡山駅の駅弁売場を覗いてみると、色鮮やかに飾った料理が点灯にズラリと並ぶ。新幹線を利用する度に、弁当の種類が実に多いことに驚く。

その中に、「祭り寿司」の弁当がある。別に「祭り」でなくても、桜でんぶなどて箱の中のご飯を綾取っているので、まばゆいばかりで、見ているだけで心が浮き浮きしてくる。これと良く似ているというより、同じものの別名ともおぼしき郷土料理に、江戸期の始めから岡山地方の家庭料理となっている有名な「岡山ばら寿司」(他の地方のばら寿司を区別するため、「備前岡山ばら寿司」と呼ばれることもある)がある。

こちらは駅弁のために開発されたのではなく、江戸期から町屋かつて池田光政が岡山城主であった時代、「町人の食膳は一汁一菜たるべし」との倹約令が出された。ところで、岡山の町人達はこれに真っ向から逆らうのではなく、表向きはこの命令に従っているように見せかけて、「実をとる」作戦に出た。
 このばら寿司の作り方は、まず沢山の具を用意しておく。NHK「美の壺・選・すし巡り旅」(2015年4月放映)で紹介された、ある主婦が作るその寿司は、広げると、びっしり詰まったカラフルな色がまばゆいばかりだった。美しさでも人を引きつけるだけの魅力を持っている料理だ。この例によると、ざっと二十四種類にも及ぶというから、驚きだ。

そもそも江戸期にどうであったかは教えられなかったが、しいたけやれんこん、ふきや、きぬさや、菜の花、そら豆などは当時でも比較的安価で調達できたのかもしれない。いまでは仏教などの催し事で精進料理が出されるのは稀だが、寺で修行するお坊さん達の食事には高野豆腐がよく入れられる、それがこの寿司にも入っているとは知らなかった。
 そんな岡山ばら寿司の主役は鰆(さわら)や蝦、穴子などの魚類であって、こちらは、当時は町人でも、普段は裕福な家庭しかそろえることができなかったのかもしれない。重箱の一つを用意しておいてから、最初に重箱の底にそれらの具を載せていく。錦糸卵、しいたけの煮しめかられんこん、鰆、あなご、ふきなどを置き、その上にきぬさや、菜の花、蒸し蝦などを順次に置いてから、その上に具が見えなくなるように酢飯を重ねる。こうすると、役人がやって来ても、「はい、このとおりの質素な飯でございます」と言い逃れることができた。食べる時は、これを逆さに大皿に受けて本当の表を出汁、きらびやかにしてからいただくのだそうだ。

このようなエピソードがどれだけ通用したかは知らないが、権力に屈しないという岡山町人の心意気、そして春の訪れを祝う。そのことで、食の楽しさを大事にしようという心意気には脱帽するしかない。
 岡山に来たら是非「食べてみられえ・・・」(方言)と土地の人に勧められる「特産寿司」は、他にも色々とあるようだ。まずは、岡山沖で穫れる小さめの魚といえば、ママカリではないか。この魚は、和名をサッパといい、体長は十センチに満たない、ちょいと小さめから、十センチはあろうかと見える中くらいのものまで寿司ネタになっている。

その背が緑黒色、腹が銀白色のコノシロとか、コハダに似た魚だ。学者によって、この魚をイワシ科に入れる人とニシン科とする人で意見が分かれるらしい。ママカリが棲息しているのは汽水域で、5~7月ごろ産卵期を迎えて内湾に集まって来るとのこと。元々は南日本から朝鮮半島南部の南海に分布していたのが、最近は温暖化の影響なのか、新潟あたりの海でも出荷できるほどの量が穫れているのかもしれない。
 岡山産のママカリは、午窓、日生、下津井、笠岡のみならず、今では埋立ての進展で海からかなり遠くなっている児島や岡山のあたりでも、漁師の網にかかっていたらしい。ままかりは、暑い日中は藻の中にいて、夕方近くになると藻の外に出て群れをなして泳ぎ回り、さらに、太陽が沈む頃には大群となって沿岸近くの浅瀬までやって来る習性があるらしく、陸岸よりの海域の海面近くに浮刺し網き網を仕掛けて引き揚げていたのだという。ところが、倉敷の水島灘などの工業地帯が近いところでは、船舶の往来が激しいため、安全の観点から戦後5年目くらいからしだいに制約を受けることになって来た。代わりに、安全にはほど遠い、船舶の常用航路付近で操業する漁船も見られるようになっている、とのことだ。
 このママカリを使った郷土料理には、そのままこんがりと焼いたり、2枚にして甘酢に漬けたり、さらに刺身にして食べることもあるのだろうか。とくに有名なのがママカリずしで、駅弁への登場は、1982年(昭和57)年ともいわれる。長方形の容器の中にママカリのにぎり寿司を並べたシンプルな駅弁ながら、ママカリの鱗をそぎ、尾を残して頭とはらわた、そして骨をはずして開いてある。古くは、ママカリの押しずしも作られていたようだ。これは升型の木枠の底に葉らんを敷き、その上にすし飯を置いて、ママカリの酢漬けをのせ、さらに葉らんを敷く。これを交互にくり返して強く押して四~五日おいてから食べていたらしい。

(続く)

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