148『岡山(美作・備前・備中)の今昔』瀬戸内の幸多し(海の幸)
では、海の幸はどうなっているのだろうか。岡山沖の海では、昔から現在に至るまで、瀬戸内の魚や貝、海草などが沢山獲れる。その当時の絵図の幾つかを拝見すると、確かに、かつての岡山沖(東側からやって来て吉井川、百聞川、旭川、笹ヶ瀬川、高梁川の河口部)に口をあんぐり開けて待ち構えているかのような形の島が描かれている。島の大きさを大きく見せている絵図があるかと思えば、そうでなく遠慮がちに海に浮かぶ小島に描かれているものもある。
歴史を紐解くと、それなりの干拓の始まりとしては1618年、現在の倉敷市西阿知から粒浦辺りであった。この時の干拓により児島は、陸続きの児島半島となった。西側の端は阿知潟(あちがた)、東側は入海としての「児島湾」になった。
その後の1692年から1824年までは、まるで取り付かれたかのように、主に新田を求めての、沿岸領主たちによる干拓が相次いでいく。岡山藩でみると、岡山市沖新田・興除新田の干拓が続いたことにより、江戸時代の初期(寛永)から末期(慶応)までの約240年間に約6800ヘクタールもの土地が造成された、と言われる。
江戸時代の海岸線のイメージとしては、古地図に頼るしかないものの、江戸中期の文人画家で知られる池大雅(いけのたいが、1723~1776)も、ここに来て、一服の絵を描いている。「児島湾真影図」(99.7センチメートル×37.6センチメートルの絹本着色)という絵は、40歳代の半ばに友人の韓天寿と共に、山陽のこのあたりを旅したときの作品だと推測されている。自由気ままな旅人としてこの地に来た際に、一気呵成に描かれたものだろうと推測される。
そこで当時の児島湾だが、岡山の浜から南に、湾曲した島があり、「児島」と呼ばれていた。そこで絵を拝見すると、児島湾を囲む半島部分の一角であろうか、小高い山が重なるようにして、海へとせり出している。岩肌がもこもこと向こうに伸びている。これだと大雅は、山陽道から南下して海岸の、とある出っ張りといおうか。
そこに描かれている小高い山の手前にまで身をせり出し、その向こう越しに瀬戸内の海を眺め渡したのであろうか。実景は、この絵の通りであったのかどうか。その後の干拓で失われてしまっているので、なんとも判断がつかない。ともあれ、向こう側には四国の山なみが、山の手前には家が描かれていて、ほのぼの海に浮かんでいる舟ともども、漁師の営みなども感じさせる、逸品に違いない。
そこで話を戻して、岡山沖の海でよく獲れる魚の書類は、現在でも十指で余るほどだと聞く。それというのも、例えば新幹線の岡山駅の駅弁売り場を覗くと、さまざまな海産物がそれぞれの小箱の中に納まっている。「あなご弁当」や「ままかり寿司」、「蛸めし」などは一つの魚だが、重箱に多いのは様々な魚がびっしりとちりばめられている。
例えば下津井弁当なんかは、蛸の酢の物やアナゴの煮たものに、卵焼きの切れがあって、その下に酢飯が詰まっているのが基本だ。その四方には、別の枠内がしつらえてあって、さわらの煮物や小さな蛸なんかはとても珍しい気がする。さわらは、瀬戸内海に産卵のため大量に押し寄せてくるものらしい。魚類はどれもこれも、このあたりの海で獲れたものらしい。所違えど海はつながっているので、隣の兵庫や広島などの海の幸も含まれるのかもしれないが。
(続く)
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