□148『岡山の今昔』瀬戸内の幸多し(海の幸)

2018-11-11 21:59:52 | Weblog

148『岡山(美作・備前・備中)の今昔』瀬戸内の幸多し(海の幸)

 では、海の幸はどうなっているのだろうか。岡山沖の海では、昔から現在に至るまで、瀬戸内の魚や貝、海草などが沢山獲れる。その当時の絵図の幾つかを拝見すると、確かに、かつての岡山沖(東側からやって来て吉井川、百聞川、旭川、笹ヶ瀬川、高梁川の河口部)に口をあんぐり開けて待ち構えているかのような形の島が描かれている。島の大きさを大きく見せている絵図があるかと思えば、そうでなく遠慮がちに海に浮かぶ小島に描かれているものもある。

 歴史を紐解くと、それなりの干拓の始まりとしては1618年、現在の倉敷市西阿知から粒浦辺りであった。この時の干拓により児島は、陸続きの児島半島となった。西側の端は阿知潟(あちがた)、東側は入海としての「児島湾」になった。

 その後の1692年から1824年までは、まるで取り付かれたかのように、主に新田を求めての、沿岸領主たちによる干拓が相次いでいく。岡山藩でみると、岡山市沖新田・興除新田の干拓が続いたことにより、江戸時代の初期(寛永)から末期(慶応)までの約240年間に約6800ヘクタールもの土地が造成された、と言われる。
 江戸時代の海岸線のイメージとしては、古地図に頼るしかないものの、江戸中期の文人画家で知られる池大雅(いけのたいが、1723~1776)も、ここに来て、一服の絵を描いている。「児島湾真影図」(99.7センチメートル×37.6センチメートルの絹本着色)という絵は、40歳代の半ばに友人の韓天寿と共に、山陽のこのあたりを旅したときの作品だと推測されている。自由気ままな旅人としてこの地に来た際に、一気呵成に描かれたものだろうと推測される。

 そこで当時の児島湾だが、岡山の浜から南に、湾曲した島があり、「児島」と呼ばれていた。そこで絵を拝見すると、児島湾を囲む半島部分の一角であろうか、小高い山が重なるようにして、海へとせり出している。岩肌がもこもこと向こうに伸びている。これだと大雅は、山陽道から南下して海岸の、とある出っ張りといおうか。

 そこに描かれている小高い山の手前にまで身をせり出し、その向こう越しに瀬戸内の海を眺め渡したのであろうか。実景は、この絵の通りであったのかどうか。その後の干拓で失われてしまっているので、なんとも判断がつかない。ともあれ、向こう側には四国の山なみが、山の手前には家が描かれていて、ほのぼの海に浮かんでいる舟ともども、漁師の営みなども感じさせる、逸品に違いない。

  そこで話を戻して、岡山沖の海でよく獲れる魚の書類は、現在でも十指で余るほどだと聞く。それというのも、例えば新幹線の岡山駅の駅弁売り場を覗くと、さまざまな海産物がそれぞれの小箱の中に納まっている。「あなご弁当」や「ままかり寿司」、「蛸めし」などは一つの魚だが、重箱に多いのは様々な魚がびっしりとちりばめられている。

 例えば下津井弁当なんかは、蛸の酢の物やアナゴの煮たものに、卵焼きの切れがあって、その下に酢飯が詰まっているのが基本だ。その四方には、別の枠内がしつらえてあって、さわらの煮物や小さな蛸なんかはとても珍しい気がする。さわらは、瀬戸内海に産卵のため大量に押し寄せてくるものらしい。魚類はどれもこれも、このあたりの海で獲れたものらしい。所違えど海はつながっているので、隣の兵庫や広島などの海の幸も含まれるのかもしれないが。

(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


□147『岡山の今昔』瀬戸内の幸多し(陸の幸)

2018-11-11 21:58:53 | Weblog

147『岡山(美作・備前・備中)の今昔』瀬戸内の幸多し(陸の幸)

 さてさて、瀬戸内地方の岡山(日生から笠岡くらいまでの山陽道及び瀬戸内沿岸)のあたりの幸は、種類、数とも実に多くある。まず陸の幸から始めると、岡山ならではのものに果物栽培がある。わけても、玉島(現在の倉敷市玉島)や船穂町(高梁川の西岸に広がる)では、桃やマスカットなどの果物栽培が盛んである。花の栽培も盛んで、春から夏にかけては、ゆるやかな傾斜の丘陵地には、スイートピーの鮮やかな色がふんだんな光を浴びて輝くのであろうか。マスカットを搾り取った白ワインも製造されているとのことで、岡山の果物王国の中心地となっているところだ。

 葡萄や花の他にも、桃の栽培にも歴史がある。明治以前から在来種による栽培が続けられていた。そこへ1876年(明治8年)に中国から「天津水蜜」、「上海水蜜」が導入される。官業試験場でそれら新品種の試験栽培が始まり、やがて本格的な栽培に漕ぎ着けたのだと伝えられる。

 なぜ岡山で桃栽培が根付いたのかは、このあたりの温暖な気候と関係が深いらしい。気候については、玉島のあたりは、日本でも一年を通して有数の晴れの多い日と聞く。恵まれた気候風土と長年にわたり蓄積された先人たちからの栽培技術の向上が積み重ねられてきた。これらにより、「白鳳」(はくほう)や「清水白桃」などに代表される白く美しい桃が開発され、今では日本屈指の桃の産地となったことが窺える。ただし、その価格は2015年夏の時点で桃果1個が2百円以上もする。これだと、産地からの送りもので貰わない限り、庶民の口には相当に入りにくいのではないか。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️630『自然と人間の歴史・世界篇』ベリーズ(1960年代~)

2018-11-11 21:30:16 | Weblog

630『自然と人間の歴史・世界篇』ベリーズ(1960年代~)

 ベリーズは、ユカタン半島の東部に位置する。1502年、コロンブスにより西洋に知られる。スペインのメキシコ副王領に編入される。

 1798年には、イギリス人入植者がスペイン軍に勝利し、自治を拡大する。1821年には、スペインから独立したグアテマラが領有権を主張する。1862年になると、今度はジャマイカ総督領に編入され、イギリス領ホンジュラスとして正式に宣言された。1884年になると、ジャマイカ総督の管轄から切り離され、英領ホンジュラス総督が設置される。

 やがて1973年にいたりベリーズと改名。1981年になってようやく独立をはたす。グアテマラは国境問題を理由に独立に反対する。1991年、グアテマラがやっとベリーズを承認する。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️635『自然と人間の歴史・世界篇』ジャマイカ(1960年代~)

2018-11-11 20:59:29 | Weblog

635『自然と人間の歴史・世界篇』ジャマイカ(1960年代~)

 ジャマイカは、カリブ海に浮かぶジャマイカ島に位置する。1494年にコロンブスが探検した。1670年には、イギリスの植民地に編入される。

 1944年、選挙により議会が設置される。1957年、イギリスの自治領となる。1962年8月には、独立を果たす。イギリス連邦の一員としての出発であった。

 1980年10月に総選挙が実施されたが、与野党が機関銃を撃ち合うなどがあって混乱、死者655名が4出た。背後には、キューバとアメリカのせめぎあいがあったという。結局、ジャマイカ労働党の勝利となり、以後しばらく右傾化の道をたどる。

 

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️632『自然と人間の歴史・世界篇』トリニダード・トバゴ(1960年代~)

2018-11-11 20:42:57 | Weblog

632『自然と人間の歴史・世界篇』トリニダード・トバゴ(1960年代~)

 トリニダード・トバゴは、カリブ海東部、西インド諸島の最南端にある。ベネズエラの対岸に浮かぶトリニダード島と、その北方のトバゴ島の二つから成り立つ。

 1962年にイギリスから独立を果たし、イギリス連邦加盟の立憲君主制を敷く。それが1976年8月になって共和制に移行した。それまでの元首は大統領に就任した。大統領の任期は5年、議会は二院制。

 1972年には、キューバと国交をむすぶ。1973年には、カリブ共同体を提唱する。

 島の周囲には石油資源が埋蔵されており、基幹産業は石油と石油化学だ。ラテン・アメリカでの代表的な石油精製基地としても知られる。

(続く)

★★★☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 


♦️637『自然と人間の歴史・世界篇』エルサルバドル(1960年代~)

2018-11-11 20:15:13 | Weblog

637『自然と人間の歴史・世界篇』エルサルバドル(1960年代~)

 エルサルパドルは中央アメリカに位置し、面積は2マン平米あまり、1985年推計の人口は482万人と人口密度は高い。 1525年、スぺイン人がサンサルバドル市を建設後,グアテマラ総督領に編入する。1821年には、独立宣言を発する。1823年、中米諸州連合結成に参加する。1841年には、同連合から分離独立する。

 1950年、憲法制定がある。1960年10月にはキューバ革命の影響を受けて民衆に木曽をおいたクーデターが勃発する。1961年には、今度は軍部の台頭で軍事クーデターが起こる。1962年には、憲法が改訂される。三権分立をうたう。1962年、国民協議党政権が成立する。

 それが1979年、クーデターが勃発、これにより革命評議会が発足する。1989年、クリスティアーニが大統領(ARENA)に就任する。1992年、政府とゲリラの間で和平合意に調印し、内戦が終結する。1994年、カルデロンが大統領(ARENA)に就任する。1999年、フローレスが大統領(ARENA)に就任する。2001年1月から2月にかけて大地震が発生する。

 2004年のサカ大統領(ARENA)、2009年のフネス大統領(FMLN)、2014年のサンチェス・セレン大統領(FMLN)がそれぞれ就任する。

(続く)

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★


♦️639『自然と人間の歴史・世界篇』コスタリカ(1960年代~)

2018-11-11 10:36:05 | Weblog

639『自然と人間の歴史・世界篇』コスタリカ(1960年代~) 

 コスタリカは、1502年コロンブスの船団の寄港により欧州に知られる。1821年には、スペインのグアテマラ総督府(中米)より独立をはたす。1823年には中米諸州連合結成に参加する。1848年、中米諸州連合より分離独立する。

 そして迎えた1949年、現行憲法が制定される。この中で、軍隊の保有を禁止する。これにより、1987年アリアス大統領はノーベル平和賞を受賞する。

(続く)

 

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★


♦️641『自然と人間の歴史・世界篇』グレナダ(1960年代~)

2018-11-11 10:21:44 | Weblog

641『自然と人間の歴史・世界篇』グレナダ(1960年代~)

 グレナダは、カリブ海に浮かぶグレナダ島と周辺の小さな島々からなる。この地は、1498年に、コロンブスらにより西洋に知らされた。1783年には、イギリス領となる。1967年には、イギリスの自治領となる。

そして迎えた1974年に、イギリスから独立を果たし、イギリス霧連邦共和国の一員となる。1950年に普通選挙が実施される。1979年には、NLM(新宝石運動)によるクーデターが起こる。モーリス・ビショップを首班とする革命政府が樹立されたものの、次第に意思不統一に。親ソ派のオースチン将軍がクーデターを起こして、ビショップ首相を殺害する。

これによる混乱に乗じて、1983年にアメリカのレーガン政権が中心となりグレナダ侵攻を行う。OECS(東カリブ海諸国機構)軍を加えた軍隊が同国の左翼政権を武力で倒した。

1984年の総選挙でアメリカの意に沿うNNP(新国民党)政権が発足する。1990年の総選挙では、NDC(国民民主会議)とTNP(新党国民党)の連立政権が発足する。

2016年の憲法改正にかかる国民投票の結果は、全ての項目で否決され、NNP(新国民党)政権への打撃となった模様。

 

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️636『自然と人間の歴史・世界篇』グアテマラ(1960年代~)

2018-11-11 08:43:15 | Weblog

636『自然と人間の歴史・世界篇』グアテマラ(1960年代~)

 現在グアテマラのある地域は、1523年にスペインに征服された。それから約3百年後の1821年、スペインから独立を果たす。1823年に結成された中米諸州連合に参加する。そして迎えた1838年、グアテマラ共和国が建国される。

 20世紀に入ってからは、苦難が連続した。1945年の大統領選挙でアレバロが大統領になる。1951年には、アルペンスが大統領職を継承する。この政権は、農地改革を進め、かつアメリカのユナイテッド・フルーツ社の土地雪舟をめぐってアメリカと対立する。

   そして迎えた1954年6月、MLM(国民解放運動)がアメリカの陰の後押しで武力蜂起をし、権力を奪う。カスティージョ大佐が大統領になる。

   1954年6月に、1960年に内戦が発生した。1966年の改正憲法下での大統領選挙で、民主的な政権交代がなされたものの、1970年からは再び軍事政権へ。1986年にようやく民政移管になる。1987年には、中米和平合意にこぎつける。続いての1996年、内戦が終結する。

 2000年、2004年4、2008年と、それぞれボルティージョ大統領、ペルシ絵大統領、コロン大統領と政権が継承されていく。

 2012年、2015年そして2016年には、それぞれぺレス・モリーナ大統領、マルドナド大統領、モラレス大統領と政権が継承されていく。

 

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️623「自然と人間の歴史、世界篇」ペルー

2018-11-10 21:18:10 | Weblog

623「自然と人間の歴史、世界篇」ペルー

 2018年8月、南米ペルーのビスカラ大統領は、ベネズエラからの難民の流入が「健康・公衆衛生に対する差し迫った危機」だとして、非常事態宣言を発令した。隣国のエクアドルも8日に同様の措置をとっている。

 ペルーは、この措置により今後60日間、北部の一部地域に対し、防災庁や保健省などの政府機関が直接介入できるという。ペルーはベネズエラと国境を接していないし、かなり離れている。それなのに、北部のエクアドルとの国境沿いの街に、太平洋沿いを南下してきた大量のベネズエラ難民が滞留しているとのこと。

 一説によると、現在42万人のベネズエラ人がペルーに滞在している。この1年間で4倍に増えたという。ベネズエラでの経済危機は、2018年11月現在も続く。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)と国際移住機関(IOM)によると、この経済危機で周辺国などに脱出したベネズエラ人は8月までの累計で230万人以上だという。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 


♦️622『自然と人間の歴史・世界篇』ボリビア(1960年代~)

2018-11-10 20:41:57 | Weblog

622『自然と人間の歴史・世界篇』ボリビア(1960年代~)

 1960年代から1970年代にかけては、政治が不安定であった。1969年4月にバリエント大統領が死去すると、左派軍事政権となったのものの1971年8月には右派のバンセル政権が成立する。この政権は、アメリカにすり寄るとともに、石油ブームに乗ることができた。しかし、1978、79年に続いて1980年には3回目の民政移管を目指す大統領選挙が実施される。そして、左派のシレス・ソアン候補がけ1つ1選投票で有利とみるや、右派勢力が軍事クーデターを起こして政権を奪取する。

 しかし、その後の経済は危機に陥るなど安定しなかったので、民衆の怒りが爆発する中、1982年には軍部が自ら退陣して民政移管がおこなわれた。

 2006年1月には、初の先住民出身のモラレスが大統領に就任する。2014年10月の大統領選挙では、現職で反米左派のモラレスが当選した。約6割の得票率で3選を果たした。任期は2015年1月からの5年間だ。任期を全うすれば計14年の長期政権になる。

 経済は、比較的良い。ブラジルやアルゼンチン向けの天然ガス輸出がけん引役となっている。低所得者層への支援制度の拡充などで国民の支持は厚い。

昨年3月に死去したベネズエラのチャベス前大統領の盟友で、外国企業の国有化も辞さない強硬な政権運営で知られる。

 

(続く)

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★


♦️618『自然と人間の歴史・世界篇』ウルグアイ(1960年代~)

2018-11-10 19:52:06 | Weblog

618『自然と人間の歴史・世界篇』ウルグアイ(1960年代~) 

 ウルグアイ東方共和国は大西洋に面し、面積、人口ともに南アメリカのスペイン系諸国の中では、最も小さい。

 1973年かの軍事クーデターから1985年3月まで文民・軍事独裁政権であった。議会は閉鎖され、事実上の軍政であったものの、軍人が大統領職にあったのは1981~85年3月に過ぎなかった。その後,コロラド党,国民党による中道左派政権が立ち、民主主義の回復や自由主義的経済政策に取り組む。

 1990年代に経済危機が起こり、国民の二大政党に対する信頼が低下する一方、左派勢力が伸びていく。2005年には史上初の左派政権たる第一次バスケス政権が成立する。この政府は経済、教育、社会福祉、貧困削減などに成果をあげる。2010年、かつて左派ゲリラであったホセ・ムヒカが政権を引き継ぐ。そして、前政権の方針を踏襲しつつ教育,治安,住居及びインフラ整備などに取り組む。

 ムヒカ政権が勇退した後の2015年には、第二次のバスケス政権が発足し、さらなる改革が進行中だ。ちなみに、2016年4月に日本に来たホセ・ムヒカ大統領の言によると、彼ら左連合政権の基本的な考え方が「草の根民主主義」であることが分る。

 「きわめて少数の者に、世界の富が集中している。生産性が高まったけれども、分配の仕方が悪いので、社会的な弱者に恩恵が及ばないのだ。

『政治に関心がない』『政治は重要じゃない』という人がいるが、政治を放棄することは少数者による支配を許すことにつながる。民主主義には限界がある。それでも社会をよくするために戦わなければならない。

 政治とは、すべての人の幸福を求める戦いである。」(2016年4月7日の東京外国語大学での講演より)

 

(続く)

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

 


□174『岡山の今昔』 岡山人(19世紀、浦上玉堂)

2018-11-10 09:09:34 | Weblog

174『岡山(美作・備前・備中)の今昔』 岡山人(19世紀、浦上玉堂)

 この鴨方(生まれたのは、現在の岡山市街)の郷土に江戸後期に生まれた画家に、浦上玉堂(うらかみぎょくどう、1745~1820、本名は浦上兵右衛門)がいる。彼は早くに武家の家督を継いでから4代藩主・池田政香(いけだまさか、任は1760~1768)に気に入られるなどして精勤し、37歳で同藩の大目付に出世する。しかし、43歳の時、1787年(天明7年)には、その任を解かれ、左遷される。「大目付免ぜられ大取次御小姓支配役仰付け」られたというから、相当の降格であった。よほどの失敗をしたのかという推測も、おそらく当たらず、確たる理由はわかっていないようだ(例えば、久保三千雄「浦上玉堂伝」新潮社、1997)。
 そうなった理由については、はっきりしていない。けれども、藩内に「此兵右衛門は性質院陰逸を好み常に書画を翫(もてあそ)び琴を弾じ詩を賦し雅客を迎へ世俗のまじらひを謝し只好事にのみ耽りければ勤仕も任せずなり行き」(岡山藩士・斎藤一興「池田家履歴略記」)とあるので、当たらずとも遠からずというところか。48歳の時には、妻が亡くなる。

 50歳にして、二人の息子を連れて脱藩する。鴨方藩とその宗藩の岡山藩が脱藩に寛容であったことも幸いしたのかもしれない。それからは、九州から北陸くらいまでの各地を放浪する。ちなみに、その時のものか、同年にしたためた詩に「少衝イッショウ伊佐翔いし遠か下縁焔か円煙霞」云々とある。

 画業もさることながら、「玉堂」の号名の由来である七絃琴の名手であったことも、旅ゆく先々で名士としての応対、庇護に預かるのに役だったに違いない。

 やがて京都に落ち着いてからは、いよいよ画業に精を出す。玉堂の画風のすごさは、心境の自由さにあるのではなかろうか。例えば、40歳代前半の作品に「南村訪村図」(岡山県立博物館蔵)がある。岡山の豪商河本一阿のもとめに応じて描かれたらしい。小品だが、中国風の山中に人が二人見えていて、後の漂泊の哀感がもう滲み出ているのでないか。 そればかりでなく、観る者に、もこもこした息吹を与えてくれるのが、なんとも趣がある。後半生(こうはんせい)には、日本画壇とは一線を画しながらも、怒濤の峰を築いていく畢生(ひっせい)の画家となってゆく彼であったのだが、それに至る頃の故郷にあって何を考え、どのような日々を送っていたのだろうか。

(続く)

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

 

□105『岡山の今昔』倉敷から鴨方、浅口へ(鴨方藩など)

2018-11-10 08:53:46 | Weblog

105『岡山の今昔』倉敷から鴨方、浅口へ(鴨方藩など)

 さて、船穂を通り過ぎた列車は、ほどなく新倉敷の駅に列車は滑り込むのだが、ここで、トンネルを含め南西へ下ってきた山陽新幹線と出会う訳だ。新倉敷を出たら、ほどなく浅口市(あさくちし)に入って、そこの金光(こんこう)に来たる。そこを過ぎて尚も西へ進むと、鴨方(かもがた)に至る。
 江戸時代、この地には新田藩(にったはん)と呼ばれる小さな藩があった。これとなるには、岡山藩の分藩としてではなく、1672年(寛12年)に本藩の内高2万5千石を与えられる。事の成り行きは、前岡山藩主(初代)池田光政は、隠居するにあたって、二男の池田政言(まさとき)宛てに同石分の新田を分知することで、別家(本藩本知の外高を持った上での分家待遇)を立てようと思い立つ。この願い出は、大方幕府(将軍は徳川家綱)の認めるところとなる。
 以来、岡山本家の支藩扱いにて、特に領内に陣屋は置かれることなく、日常の政務は本藩が面倒を看ていた形だ。そのまま推移して幕末に至ると、鴨方藩と称した。これら政務に関連して、本藩との間を結ぶ連絡道「鴨方往来」(かもがたおうらい)が設けられていた。

 この道は、当時の岡山城下、栄町の千阿弥橋を起点として、西に向かって当時の庭瀬(にわせ、備中国都宇郡賀夜郷)、撫川(なしかわ、上代のこのあたりは備中国都宇郡撫川郷)、浜ノ茶屋、長尾、占見、地頭下などを通って鴨方に通じていた。瀬戸内の海岸線に近いところから、「浜街道」(はまかいどう)とも呼ばれたらしい。

 さらに鴨方を出て少し西に行くと、そこは里庄である。明治初期の道でみると、里庄からは、川手・本町・西町から里庄町高岡を経て笠岡の小田県庁(現在の笠岡小学校のある場所)に達していた。一方、里庄町から南へ向けては、南隣には寄島町(よりしまちょう)がある。ちなみに、以前の浅口郡内のうち、2006年3月に金光、鴨方、寄島の三つの町が合併して浅口市となっている。

 今地図を広げ、この寄島町へ倉敷方面から行くには、主に二つのルートがあるようだ。一つは、里庄町から県道矢掛寄島線を南に暫く下って行くと、そこはもう寄島の海である。今ひとつは、現在の倉敷市の南端から海岸沿いを辿って行けば、程なくしてこの温暖勝風光明媚な町に至ることができるだろう。


 現在の浅口市寄島町南部の沖合には、小さな三つの島(寄島とも三郎島とも)があるとのことだし、その南側には、特に瀬戸内海では今やほとんど見ることができない自然が広がっていて、さらに南方沖合(水島灘、備後灘の寄り合うあたり)には、いわゆる「笠岡諸島」があって、人々の生活がここでも営営と続いているのである。

 このあたりでは、『古事記』に見える神功皇后(じんぐうこうごう、『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯 比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめ))とは、仲哀大王の皇后であるとされる人物で、応神大王を産んだとされる人物とされるものの、現在では、文中での脈絡のままに実在していた可能性は極めて薄いと考えられている。

 けれども、各地にこの種の伝説が数多く残されている中での一つとして、この地ならではの伝説が生み出されてきたことは、それはそれとして、郷土にとって未来に向かっての意義あることとして受け取って良いのではあるまいか。

 それに加えて、2018年8月、京都大学が、同大岡山天文台(岡山県浅口市鴨方町本庄)で整備していたアジア最大級の光学赤外線反射望遠鏡(愛称・せいめい望遠鏡)が完成した。11月から全国の大学などによる共同利用が始まっている。

 このせいめい望遠鏡は口径は、3メートル80センチと世界最大級だという。18枚もの鏡を組み合わせて1枚の主鏡とする国内初の分割鏡方式を採用。望遠鏡の動きや温度の変化などで起きる鏡同士のずれは、最新制御機構で絶えず50ナノメートル(2万分の1ミリ)以下に調整できて、使う人の便利性が大いに期待されるという。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


□258の3『自然と人間の歴史・日本篇』戊辰戦争、奥羽、会津、五稜郭での戦い

2018-11-09 19:05:13 | Weblog

258の3『自然と人間の歴史・日本篇』戊辰戦争、奥羽、会津、五稜郭での戦い

 戊辰戦争(ぼしんせんそう)の発端としては、新政府軍側の驕り高ぶりに対する旧幕府勢力(旧幕府残党や新政府4側に距離をおく諸藩)の反感もあったであろう。上野に立てこもった彰義隊(しょうぎたい)の抵抗があったものの、長州藩の軍略家大村益次郎の作戦にひっかかり、鎮圧される。すでに江戸城が開城されており、「旧幕府残党」とみなされたので、意気も大して上がらなかったであろう。奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)には、東北の盟主であった仙台藩、米沢藩を始めとする東北の26藩、越後の6藩が参加した。 

 この同盟だが、新政府にはむかうような性格を併せ持っていた。それというのも、時を少し戻すと新政府軍から、会津藩と庄内藩を討つよう仙台藩と米沢藩宛に東北の諸藩に対し命令が下っていた。ところが、その諸藩からしてみたら、なぜ自分たちが新政府軍の尖兵となって会津藩、庄内藩と戦わなければならないのか釈然としなかった。
 しかし、両藩を許すべきだという彼らの主張は、新政府軍の認めるところとならなかった。そこから、自分たちの利害か新政府軍と馴染まないということに動いていき、かかる同盟を築くにいたる。そうして彼らは会津、庄内の勢力にくみし戦うことになる。

 ところが,新政府軍が白河口、越後口から大挙して進攻すると、秋田藩をはじめ、脱退が相次ぐ。そして、新政府軍側に協力する藩が相次いだ。続いて、新政府軍が北陸を鎮定し、白河、棚倉、二本松を攻略したため、米沢、仙台の両藩も降伏するにいたり、同盟は瓦解した。
 これにいたり、新政府軍と旧幕府軍の関係はもはや多勢に無勢となった。その中で最後まで抗戦した会津藩も9月 22日、ついに降伏した。会津の戦いでは、多くの若い命が失われた。

 これらの戦いに威力を発揮したものに、アームストロング砲による砲撃があるが、これは佐賀藩から供給されたものという説があるものの、どうやらこれは佐賀藩の自家製ではなくて、出元はイギリスからの輸入品であったのではないか。なお、佐賀藩は、鳥羽・伏見の戦いをみて、新政府側についたことになっている。

 それに加えて、先の江戸開城に不満を持った榎本武揚(えのもとたけあき)らの軍人を中心とするグループ約3千人は、箱館、松前、江差などを占拠し、力を誇示する。北海道を掌握する。一説には、「蝦夷共和国」(えぞきょうわこく、仮称)の樹立を目指して乗り込んだというのだが、そこまでいえる証拠はみあたらない。

 箱館の五稜郭を占拠し、新政府軍を迎え撃とうとした。しかし、軍艦開陽丸が江差沖で沈没したりで、兵力が続かないままに弱体化し、翌1869年(明治2年)5月にここを明け渡した。総裁の榎本は、のちに許され、新政府の仲間にはいる。

(続く)

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★